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『完全無――超越タナトフォビア』第三十二章

きつねさん、いや大覚きつねさんと呼んでもいいようなレベルのきつねさんは、たびたびこんなこともおっしゃっておられました。

言葉で時間や時間にまつわる、すなわち時間に付属するさまざまな観念ゲームを語ろうとすると、究極的には近似値としての概念の場を数として並べ立ててしまい、並べ立てたことで、無限というタナトフォビアのひとつの側面を照射し過ぎてしまう、と。

たとえば「今」という言葉も、透明な紙に黒い点を打つようなもので、結局はその位置情報を明確にあらわさざるを得なくなり、それが機縁となって、すぐさまその黒い点以外の空間、すなわち無限に透明な背景を、主体の脳内に自動的に想起させてしまい、それと同時に、時「間」などという世界の根源的本質においてはあり得ないはずの概念まで、主体に対して強制的に認識させてしまうのだそうです。

たとえば――母親が死んだ――という文章も、母親が死んだことそのもの性と比較した場合、つまり真実性から実在性を差し引いた近似値としての表現に留まらざるを得ず、結局のとこと、言葉と真実的事物を完全には一致させることなどできないということが、言葉の限界能力なのだそうです。

1+1=2という数式すなわち記号列においても、真の1と真の1とが視覚上では達成されているように誤魔化されてしまいますが、真の1と真の1とは、真の1aと真の1bに過ぎず、つまり先程注目したように、真実性からその実在性を差し引いたかたちでしか、言葉だけでなくあらゆる文字や記号というものは表現され得ない、つまり世界においては、真の1という真実(真の1に紐付けられるところのひとつの真実)を同時に二つ用意することは不可能である、という常識的な観点からも、近似値同士の関係性を無限に照射し合うよりほかには、その構造を分析することができない、という結論が導き出される、ということ。

それは、言葉というものを大きく捉え、言葉に内属するあらゆる概念に当てはめてみた場合にその限界を如実にあらわさざるを得ない、ということなのでしょう。

もっと噛み砕いて言いますと、真の1というからには、それ以外には1と呼べるはずのものは、この世界においてはひとつとして存在し得ないはずだからです。

ここで、先程の1+1=2という数式を再度持ち出しますね。

+の記号を挟んでいるところの二つの1は、世界においては同じ1ではあり得ず、よってその演算結果としての2という数字も、二つのなにものかとしてたとえ脳内で漠然とイメージできたとしても、真の2ではあり得ないのです。

たとえば、テーブルの上にリンゴを二つ並べて置き、さらに別のリンゴのひとつを左の手のひらに、さらに別のひとつのリンゴを右の手のひらにのせてみましょう。

ところで、真の2とは、どちらのリンゴの組が、真の2なのでしょうか。

眼前的にも用具的にも有用性を醸し出しているはずの四つのリンゴたち。

主体の環境世界において、いかにそれらのリンゴが「四つ」存在する、と確信されたとしても、それらのリンゴのひとつひとつが、真に数学的な1に相当するなどということは、どのように証明できるのでしょうか。

まずもって、同じ場所を占めてもいない、それらのリンゴたち、さらに、無限にミクロの観点から視れば、その大きさや重さ、あらゆる物理量において絶対的に同じものであることなど不可能ではないでしょうか。

どのような数字も、それが数字の本質を弁えている限り、この「世界における世界そのもの性」においては、存在論的化学性にはデータを寄与することは可能であるものの、純度の高い試料としては不適切であると言わざるを得ないのでしょう。

現実世界にはそぐわない、いやそぐわなくてもいいから、とりあえずはだいたい合ってればいい、というのが「数の」世界の論理であります。

人間が創り出したる壮大なる数字的イメージは、人間の脳内にしか存在し得ない抽象的なガラクタに過ぎない。

遊ぶにはいいが【理(り)】の探究という道においては足の踏み場を掘り崩すことに躍起になっているお邪魔キャラとして機能するだけの宿命に処せられているのです。

数というものに救いがあるとするならば、たとえ脳内にしか存在し得ないとはいっても、確実に存在することができる、という属性を知ることで、「世界の世界そのもの性」へと迫るにあたって反面教師として利用することができる、ということでしょうか。

われわれを前-最終形真理という地平に足止めすることで、その場をクリアして、そこから次のステージへと進む、つまりきつねさんの提唱する【理(り)】にたどり着くための段階に立ちはだかる、たとえばハリウッド映画脚本術などによくあるパターンとしての「困ったちゃんキャラ」が作為的に割り込んでくる感じなんでしょうね。

ともかく「ある」という文字の輪郭を見つめ、そうして次第にその輪郭を消していく、そんな瞑想的な戯れに楽しく興じることができるならば、それが、「世界の世界そのもの性」という究極の【理(り)】に近づくための方便となり、ステージとしては、前-最終形真理と【理(り)】とのあわい、あるかなきかの境界線レベルに突入できることは間違いないはずです。

えっへん!


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