見出し画像

文化は命の洗濯

読書の秋、『聴耳草紙』を読んでいる。佐々木喜善(ささき・きぜん)著、岩手県遠野に伝わる物語の聞き書きを集めた本だ。その中に「生命の洗濯」と題された一話がある。

「相撲芝居は命の洗濯」という諺がこの地方にある。その起こりはこうである。

ある時、若い衆三人が長い土手を歩いていると、向こうから一人の按摩がやって来た。三人は相談して、その按摩に占いをしてもらった。按摩は「お前がた三人は明日の昼頃に死ぬ」と言った。

三人は心配しながら家へ帰ったが、翌日になって、三人のうち二人は度胸を決め、死ぬなら死ねと覚悟して芝居を見に行った。他の一人は親戚や知人を呼んで別れを惜しみ、この世の名残に旨いものをたんと食べたりしていたが、占いの通り、お昼頃に死んでしまった。

芝居に行った二人は、何もかも忘れて見ており、死ぬ頃になっても死なないで見物を続け、とうとう死ななかった。
これが、「相撲芝居は命の洗濯」の由来である。

鈴木喜善「149番 生命の洗濯」『聴耳草紙』ちくま学芸文庫、2010、435頁(一部変)

命の洗濯。死の予言を忘れることができるだけでなく、死を遠ざけることもできる、娯楽の力。この物語はどこか、芝居をはじめ文化的なものを擁護する役割があるのだと感じさせられる。どこかの家庭では、こんな会話があったかもしれない。
「うちのせがれが相撲ばかり見に行って困るんだよ。できたらその時間も惜しんで働いてほしいんだがね」
「そうは言っても『相撲芝居は命の洗濯』と言うじゃないか。おかげでその子の寿命が延びているかもしれないんだよ」
「まあ、そういうこともあるかもしれないねえ。暗い顔でふさぐよりかは相撲を見ているほうがいいかねえ……」

(即席で書いた会話なので、史実に即している保証は何もない。諺と言われている以上は、こんな風に使われていたのかな、くらいの話だ)

他にも読み方はいろいろあるだろうが、自分は「文化の力を伝えたいエピソード」として受け取った。演劇でも漫画でも音楽でも、それらは生存に不可欠なものじゃない。だけど時には命を救う。不吉な予言を忘れさせ、死ぬのも忘れることができる。それは言われてみれば「魂の洗濯」かもしれない。一回洗ってまっさらにして、綺麗になった心でまた生きること。心は取り出して洗うことができない分、好きなものや美しいものに触れることで「洗濯」するんだよ──という、先人の温かい教えに思える。

「相撲芝居は命の洗濯」、普通に諺にあってもいいような気がするけど、どうだろう。

この記事が参加している募集

推薦図書

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。