見出し画像

外に出る、出ない

梅雨が明けない地域もあれば、太陽がカンカン照りの地域もあって……。日本列島の皆さま、暑中お見舞い申し上げます。

…………✂️…………

自分の中の差別感情に気づかされることがある。今日、久しぶりに電車に乗って、派手な格好をした子連れの女性(恐らく母親)を見たときにそう思った。彼女は派手なネイルをしてアクセサリーを重ね付けしていて、それは自分の思う母親像とは程遠くて、一瞬「そんな爪して子育てしているの?」という、めんどくさいオバサンのような感情がよぎった。

自分はそんな人間じゃないと思っていたのに。誰がどんな格好をしようが勝手だし、母親だからそれが制限されるなんて時代遅れだと信じていたのに。いざ目の前でそれを見せられると、簡単に「PTAのおばさん」みたいな気持ちが湧いてしまう。

もっとも、内心で何を考えようがそれは個人の自由だ。私は彼女に向かって「あなたそんな恰好で本当に子育てできるの?それで母親なの?」と絡んだわけではないし、実際にやったことと言えば、吊革を掴んで立っていただけである。彼女を睨んでもいないし、これみよがしに独り言をつぶやいたりもしてない。「思う」ことそれ自体に問題はない。

どうして「派手な母親像」が自分は気に喰わないのか。そんなことを考える。

ネイルを楽しむ人は知人にも何人かいる。誰も悪い人じゃない。アクセサリーが好きな人もいる。彼女たちはちゃんとした社会人だ。恰好が派手な人に、嫌な記憶があるわけじゃない。むしろ、いい人たちだ。彼女たちが母親になったら、とてもいいと思う。だから「装飾品が多い=ダメな親だ」とは思わない。

たぶん彼女は、これまでもそういう意見に晒されてきたんじゃないか。それでも臆することなく自分の趣味を貫いている強さが垣間見えて、それが羨ましかったのかもしれない。友人で既に出産・子育てをしている子で「もうこの年齢だし(まだ20代なのに)かわいい服なんて着られないよ」と言って無地の服ばかり身に着ける女性もいるけれど、電車にいたその人は、そんなことを気にしていないorわかっていて無視しているのだろう。

つまるところ、他人の目を気にしていない感じが自分にとってはカルチャーショックだったのだと思う。外に出て、日ごろ接することのないタイプの人々を見るのは、いろんなことを考えるきっかけになる。最近、外出の機会が減ってしまったから、そういう「無関係な他者」を見ることもなくなっていたんだなあと実感した。知らず知らずのうちに、今いる世界に閉じこもっていたというか……。

閉じこもるのは悪いことじゃないけど、こうやって外が見えなくなるのかな。そんなことを考えた。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。