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理不尽な権力

身体と権力。一見「なんのこっちゃ」と思う組み合わせだ。一方は具体的で身近過ぎるし、もう一方は捉えにくく抽象的だから。だけど、それをテーマにした哲学者はいる。最近、児童虐待の事実が報道されたミシェル・フーコー、フランスの学者。性格は難ありだったけれど、彼の思想の価値は揺るがない。フーコーは、権力論を得意とした人だった。

わかりやすい権力の形がある。例えば体罰。悪いことをすると殴られる。「悪い」とは、おおむね「権力を持つ側にとって不都合」を意味する。嘘をついた子どもを殴るとか、試合をサボった生徒を蹴り飛ばすとか、そういう力の振るい方がある。そういう時、権力は身体に関わっている。人の体を使って、力を及ばせようとする。

もうちょっと話を広げるとこうなる。スカートの丈が短いと怒られる。授業中に寝ていると、内申点を下げられる。そうやって個人の領域に「権力」が入ってきて、「あれはいい、これは悪い」という判断基準を、私たちの中に叩き込む。それは「教育」とも呼べるし、「調教」だとも言える。あれはいい、これは悪い。それを執拗に教え込むこと。

そういう力は、どこにでも存在する。どこにでも。家庭にも学校にも、先輩後輩関係の中にも職場にもある。「どこかにいる少数の人が世界を支配している」みたいなイメージを持つ人もいるけど、全然違う。権力はとても身近だ。監視や教育(調教)によって、人をより役に立つ人間に仕立て上げる。

「そんなの当たり前じゃん」と言われるかもしれない。「結局何が言いたいの?それが権力ってものだし、いまさらどうこう言ったってしょうがないんじゃないの?実際、スカートが短いとか授業態度が気に入らないってだけで減点されるのは事実でしょ。下手に権力に抗うとか、バカのすることだよ。黙って言うこと聞くのが大人になるってことでしょ」

そういう反論がわからないわけじゃない。別に「権力に反抗しろー!」と煽るつもりはない。ただその仕組みをわかっておこうと思うだけ。それは、誰が、なんのためにやることなのか。それが私たちをどうやって変えていくのか。どんなメカニズムによって支配が完成し、自分たちがどんなやり方で管理されてるか。単に知っていたいと思うだけだ。

フーコーによれば、17世紀までは、今のようなやり方は普通じゃなかった。「権力」と言えば、それは君主が持つものだった。ざっくり言うと、誰かの命を奪うかどうか、それを決める力だった。あの人は悪人だから命を取る、あの人はそこまで悪くないから生かしておく。そういうタイプの権力。裏を返せば、それは人々の生活の中までは入って来なかった。

17世紀以降になって、権力は人々の生活に介入してくる。規律を作って、朝は何時に起きろとか、何かやらかしてないかずっと見張ってるぞと言うようになる。人の身体を従順に有用にすること、それが権力のひとつの役目になった。人は太古の昔からこんな風に支配されてきたわけじゃなく、けっこう新しいやり方だってことだ。

スカート丈を指摘されてうんざりしてる女の子や、理不尽な理由で内申点を下げられている男の子に、してあげられることは何もない。何もないけれど、君らは理由なく痛めつけられてるわけじゃないよ、とは言いたい。そうしたほうが管理しやすいから、支配者が楽になるから。そういう諸事情により、従わなければならないたくさんのルールは作られる。

「意味も理由もわからないのに従わされている」と思っている人たちに対してできるのは、こんな話をすることだけだ。確かに規則は存在するし、従ったほうが波風立たず、内申も下がらない。でも内面まで染まる必要はない。そんな話。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。