見えない苦しみ

文章中の主語で「僕」と「俺」を両方使っているエッセイを見る。別に「一人称を統一せよ」と文句をつけたいわけではない。「この人にとって『僕』と『俺』と、それぞれ別の人格が存在するんだろうな」と感じただけだ。読んだ文章の中では、誰かに何かをしてもらうときには自然と「僕」になり、誰かに何かをしてあげたいと思うときに「俺」になっていた。

男性社会で男性として生きるということが、どういうことなのか自分はよく知らない。内側に入って体験してみることのできないものは、外から推測するしかない。「僕」や「俺」を一人称とする人たちが、どんな生活をしているのか。それは、自分が女性として見ている風景とどれだけ異なっているのか。

男性社会には独特のピラミッドがあるように見える。(そんなの女性にだってあるのだろうけど、一旦それは置いておこう)彼らは時として「女性を抑圧できるほうが階層が高い」と思っている。異性を自分の支配下に置けることが、自分の男性らしさの証だと考えていて、そうすれば周囲の同性からの称賛を得られる──そういう発想。だから、異性に認められるためよりもむしろ、男同士で舐められたくなくて、男性からの尊敬(?)が欲しくて、女性に向かっていく人たち。こういう男性は一定数いる。(当然、「支配」の内訳は正当なものばかりではなく、暴力だとか道徳的にアウトな手段も含まれる)

もちろん、他にもいろんな要因があるだろう。年収とか仕事の能力とか外見とか、家族が持っている地位とか。だけど、上に書いた「格上か格下かは、同性から見た『男らしさ』によって決まる」という不文律は、よく目を凝らさないと見えなかった──というのが本音だ。そういえば、若く美しい配偶者のことを「トロフィーワイフ」と言うことがある。これも、その根底には「若くて美人な妻を持てる俺はすごいだろう」と同性に誇示する目的があるんじゃないか……。男性は、自分が思う以上に同性からの評価を気にして生きているんじゃないか、そんなことを思い始めている。

男性の息苦しさ、ということ。誰もそれを声高に訴えたりはしない。そんなことをすれば、男性社会での自分のランクを下げることになるから。そして男性に見下される男性は、多くの場合、女性からも理解されない。

以上は、完全に個人の見解である。どこまで当たっているかわからないし、そんなヒエラルキーに関係なく朗らかに生きている男性もいるだろう。でも、そうじゃない人もいるのだ。自分はこの「そうじゃない人」の中に、自殺した兄の姿を見出してしまう。スポーツが苦手で、女性にモテたわけでもなく、男らしさという単語とは程遠かった兄。優しい人ではあったけれど、それだけでは生きていけなかった。

別に兄は、男性の階級構造を苦に自殺したわけではない。だけど、男性社会がもう少し彼に優しかったら、自殺せずに済んだかもしれない。そんなことを思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。