装う理由

人目を気にして服を着ている。それが悪いことだとは思わない。フェミニストの人たちが「女性らしい服装は抑圧の象徴」と叫ぶ現象をモヤモヤしながら見ている。

「装う」ことに対して拒否感を持っている人がいるのは知ってる。「化粧は詐欺だ」と言う人もいれば「ファッションを気にするなんて滑稽だ」と意見する人もいる。でも、自分はそこに与(くみ)しない。装うのは悪いことじゃない。

他人からどう見られてもいいような恰好をしていた時期もあったけれど、それがいつしか人目を気にするようになったのは、単に色気づいたからというより、ずっともっとヒリヒリした理由だった。自分にできる装いを、したくてもできない人がいるのだということを理解し始めて、それからだ。

水色の軽い靴を履いたとき、靴屋さんはとても褒めてくれた。
「すごく可愛いですよ、そういう靴って僕らみたいなおじさんが履くってわけにいきませんから……。よくお似合いです、可愛らしいですよ」。

「ワンピースを着て外を歩きたい」と言っていたゲイの男の子。

お世話になっているマダムは「愛らしい服って若い内しか着られないのよ……いや、歳を取っても着るけどね。でも若い人が着るのは別格なのよ」

母親の言う「これはあなたに似合う色の服で、私の色じゃないからあげる」

そういう人たちの声を耳にする度に、他人にできないことが自分にはできるらしい、と気づくようになった。高慢な言い方をすれば、自分は「他の人たちの代わりに装っている」という感覚が芽生えてきた。私はワンピースを堂々と着られる、水色の可愛い靴を履ける。若い間に着ることで「別格」になる服があって、母親には似合わない一着も私なら似合う。そう考えたとき、誰かにできないことは私がしよう、と思った。そしてそれが、他人に対する私なりの信条になった。

もちろん、逆もまた然りだ。自分には似合わない物、着にくい物はたくさんある。渋い男性にしか似合わないファッションは真似できないし、肩幅のあるかっこいい女性たちが着こなすトレンチコートも、自分は苦手だ。だから、それは彼らが着てくれればいい。私にできないことを彼らが叶えてくれたらいい。

自分が気にしている「人目」は「周囲から浮かないかどうか」よりも「相手が喜んでくれるか」ということにかかっていて、それは詰まるところ「相手にできないことを叶えているかどうか」なのだと思う。おじさんには履けない靴を代わりに履き、男の子には着られない服や、いまの年齢で一番映える服を着る。そういうベクトルで「装う」を考えている。

もちろん、男の子がワンピースを着ても、おじさんが水色のファンシーな靴を履いても、私がトレンチコートを着てもいいだろう。でもそれはエゴの域を出ない。誰かのための、誰かの代わりにする装飾とは違う。どんな格好をしようと自由だけれど、その人それぞれに合った装いが、結局のところ一番の他者への貢献なんじゃないか。今はそう思う。ファッション観なんていうのは、これから変わっていくかもしれないけれど、今は。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。