「なんのために生きていますか?」

「なんのために生きていますか?」と直接、訊かれたことのある人は少ないんじゃないか。私たちは毎日、明日のために準備をし、誰かのために仕事をして、時として人ではなく何かの理念のために努力を重ねる。未来のために、誰かのために、あるいは何かのために。そのすべての「ために」は、結局なんのためにあるのか。そういう問いは、日頃は放っておかれる。

この問いに、綺麗にまとまった答えを出して、それを押し付けてくる人間は危ない。そういう感覚が自分の中に根深くある。「私たちの神様のために生きてください、それがあなたの生きる意味ですよ」とか「ここは資本主義社会だからカネを稼ぐために生きるんだ、それが最適解だろ」とか言う人は危険だ。それは思考停止でしかない。「あなたはそれでいいかもしれないけど、私はよくない。自分のことは自分で考えます」と返事するしかない。

ただ最近思うのは、人はそのつどこの問いに答えているということだ。毎日すべての瞬間が、冒頭の質問への応答であると言っていい。料理をしているなら、その瞬間は料理をするために生きているのだし、それが誰かに食べさせるための料理なら、誰かを食べさせるためにその瞬間を生きているのだし、何もしていないときは、何もしていないということをするために生きているのだ。宇宙のすべてのものは動き続けていて、一瞬たりとも停止しない。それは、あらゆるものが常に「何かをしている」ということであって、何もしないでいることが不可能なのは、それが常に何かをするために作られたからだろう。

そういうわけで、答えは行動の中にしかないのだと思っている。足を止めて頭をひねるのではなく、動きながら考え、答えていく問いなのだと。時には「あなたはこの思想を広めるために生まれてきたのよ」とか「これこれのことを達成するために生きているんですよ」と外から教えてくれる人がいるかもしれないけれど、それは本質的なやり方じゃない。動いてここで生きていることがもう答えでしょ、と思う。それ以外の「人生の使命」とかは二次的なもので、あなたがそこで生きていることが「なぜ生きているのか」への根本的な応答なんだと。

もちろん、それでは何も変わらない。そう、変わらない。「私はなんのために生きているんですか」と訊く人は、その答えがわかれば霧が晴れるように人生が変わると思っているフシがあるけれど、変わらない。これは人生を変えるための問いじゃない。すべてを委ねられる何かを見つけたいなら「何を信じて生きたら楽ですか」と訊いたほうがいい。「なんのために生きるのか」は、答えるための問いであって、「『答える』という行動」をいつも要求してくる問いであって、固定化された綺麗な回答なんてそもそもありえない。


ずっと前に初対面の男性からぶつけられた「へえ、哲学お勉強なさってるんですか。人はなんのために生きてるんですか、教えてくださいよ」という喧嘩腰の質問にしどろもどろに返事した思い出がひっかかっていたので、今日はようやっとその回答(らしきもの)を書いてみた。答えそのものではなく、答えることに意味のある問いなんです、と、今ならどうにか言い返せるだろう。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。