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現代アート考察~「クラフト・エヴィング商會」編~

ミシェル・フーコーがマグリットについて語るみたいに、私がクラフト・エヴィング商會について語ってもいいと思う。彼らがやっていることは、広い意味では現代アートに入る。そういうわけで今日は、現代アート考察、クラフト・エヴィング商會編。

これは岸本佐知子のエッセイ本の1ページで、挿絵担当がクラフト・エヴィング商會のお二人(吉田篤弘、吉田洋美)。文庫本の、ちょうどそこに親指を置いて本をめくったり支えたりするであろう場所に、親指の絵が描かれている。人はなんとなく、その絵の上に自分の親指を置きたくなるのではないだろうか。その絵を覆い隠すように、自分の指を重ねてみる。もちろん何も起きない。

これと似た現象をあなたは知っている。例えば、レジの前の床に描かれた足跡の絵だ。あれは、人々に足跡を想起させることで「ここで足を揃えて待て」というメッセージを描き出す。そのマークは、人々が円滑に列に並び、買い物の順番を待つことに貢献している。

普段、身体の痕跡のマークはそんな風にして使われる。人差し指でどこかを指し示すマークがあったら、それは指の差す先に、何か目的のものがある。電車の椅子の座る部分を取ってみても、これは人の腰をホールドするように緩く婉曲している。これはマークではないが、身体が作り出す跡、人が座った後の形が「ここは座席である」ことを喚起する。

翻って、冒頭の絵はどうか。私は自分の親指をそこに乗せる。ピッタリ重ねてみる。だけど何も起こらない。親指の先が何かを指し示しているのでもないし、そこに指があるからと言って、本を読む体勢が楽になるわけでもない。描かれているだけである。ここにバグが生じる。本来なら、体のパーツが描かれる意味があるはずなのに、この親指は無意味に描かれている──。変な感じがする。

この違和感に、現代アートを感じる。本来あるはずの結びつきがない。清々しいまでに役に立たない。「役に立たない」というのは、この場合「その絵の指示に従っても何も起きない」ことである。親指は何も指し示していない。ただ描かれている。ただ描かれているにしては、とてもちょうどいい場所に描かれている。だけど意味はない。この違和感。

「哲学は驚きから始まる」という言葉があるが、この「驚き」とは「違和感」のことでもある。あると思っていたはずのものがなかったり、普通はこうなるはずのことがならなかったりするときの「えっ、そんな」という驚き。あれだ。

「普通はこうなる」はずのことに、小さな風穴を空ける。それがアートのひとつの定義だとしたら、これがまさにそうだと思うのだ。

引用:岸本佐知子『なんらかの事情』ちくま文庫、2016、151頁

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メルシーベビー
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。