【詩を紹介するマガジン】第13回、三木卓
早口で読みたい日本語。
歴史は繰り返す。最近ある人から「お母さんに似てきたわね」と言われて、そうかなあと思っているうちにこの詩をおもいだした。
「血筋」なんて言葉は、いけ好かないものとして知られている。人間は努力すればなんでもできると信じる人々にとって「遺伝が有利」とか「血筋がよい」なんて発想は受け入れられない。
純血至上主義は自分もそれほど好きじゃない。一方で「でも親子って似るよな」とも思う。嫌なところもいいところも貰って、歴史を繰り返す。家族はいつでもどこかで似通ってしまう。
両親は離婚していて、ひとりしかいなかった兄弟は自殺したような家庭だから、歴史は繰り返すと思うと溜息しかでてこない。お母さんに似てきたわね、は、あなたもお母さんと同じ人生を送るわよ、に聞こえてくる。言った側にそこまでの考えはない。
どうせ繰り返されるなら、中身は美しいほうがいい。三木卓のこの詩の繰り返しはいい。「親父さんが途中で死んでるじゃないか、なにがいいんだ」と父なら言いそうなものだけど、悪い死に方には見えない。
一生懸命ねじりはちまき、死ぬほど働いてそのとおりくたばった……。リズミカルに生きてリズミカルに死んでいる。詩人にこう形容された人は、単純にしあわせだと思ってしまう。
もちろん本当は、そんな風に数行でどうこう言えてしまうほど簡単な人生はない。その簡単じゃないものを、数行におさめられてしまうから詩はいい。詩はよくて詩は残酷だ。
むかし誰だったかの墓碑には「生きた、愛した、死んだ」とだけ書かれたと言う。言ってしまえば人生それだけなんだけど、そうは言ってもそうはいかないのが日常ってもので。
やっぱりご飯は食べないと生きていけないし、人間関係はあるし、ささいな出来事でへこむときもあれば、逆に舞い上がるときもある。そんなあらゆるささいなことで人生は出来上がっていて、当然ながら墓碑には刻まれない。
ある意味、歴史的に見ればどうでもいいことばかりで生活はなりたっている。大きな歴史も小さな歴史も繰り返しながら、人は生きるし生きてきた。人類がどんなに進歩しようが、人はいつでも親に似ていて、小さな歴史も大きな歴史も繰り返し繰り返す。
死んだ兄の顔は父親にそっくりだった。父は電車に飛び込んで死んだりしなかったが、兄はやった。私は母に似てきた。どんなところがどう繰り返されているのかわからない。似ていると教えてくれた人は、お母さんはいつでも少女のような人よと言う。
三木卓は、紫綬褒章まで受賞した作家なので、知っている人はすごくよく知っているかもしれない。自分はこの詩のインパクトが強かったので、ほとんどこれしか知らなくて、さっきようやく他の作品も読む気になった。週末の読書リストに入っている。
今週は台風の影響でひろく雨が降る。人生で何度目の台風かわからないけど、こういうときはひきこもって読書と相場は決まっている。天気はよくないけど、こういう繰り返しは悪くない。