報道人に思うこと。RADWIMPS 新曲“PAPARAZZI”

三年ほど前に、乗っていた新幹線が吹雪の中で立ち往生し、半日に渡って閉じ込められたことがあった。もう車体が動かせないから、この先はバスで移動する、新幹線を降りてくれというアナウンスが入った。自分は携帯をいじる習慣がなかったので知らなかったが、窓の外では大きなニュースになっていたらしい。他に乗客に続いて、外に出ようと足を踏み出した瞬間、カメラのフラッシュが光った。なんの覚悟もしていなかったので、雪で作られたタラップを危うく踏み外すところだった。

身体的にバランスを崩しかけたのと同じくらい、心理的にも一瞬、均衡を失いかけた。10時間以上、閉じ込められて「やっと外の空気を吸える」と油断したところに、突然のカメラの光である。怖かった。「人目に晒されている」「知らない誰かが、許可なく自分を撮っている」という二重の不気味さに襲われた。しかも撮った写真は、どう使われるかわからない。自分は一般人だが、どこかでそれを見た人から「あのとき報道写真に載ってたね」とか言われたら、プライベートを把握されているようで不快になる。あの一撃は、そんな恐怖と不快感とを引き出した。

あの、その写真、必要ですか?せめて映ってる人間の顔、ぼかしてくれませんか?
そんな交渉をする余裕は、当然ながらどこにもない。

ラドウィンプスの新曲は「PAPARAZZI」、パパラッチの父親とその息子という設定の曲だが、聞くと戦慄が走る。芸能人、有名人と呼ばれる人があの恐怖に常日頃さらされていることを考えると、そんなのは非人間的な暮らしだと、改めて言わざるをえなくなる。

歌詞の中には「息子さんが成功してどうですかって俺の親に聞いたみたいだけど、お前の親にも聞いてやろうか?息子が、人の家の前に貼りつく人間に育った気持ちはどうだ?」みたいな(歌詞を詳しく書くと著作権に触れるので、「こんな感じ」という雰囲気です)文章があり、やられた側の生々しい本音が出ている。一般人の自分にとってさえ、その嫌悪感は想像に難くない。あの不快な体験は、一度しただけでも十分なのに、日常になったら気が狂うだろう。

「あの人たちは有名人だから当たり前」と思っている人ね、それいつか自分も喰らうよ。彼らは相手が誰であろうが、容赦なくカメラを向けてくる。有名か否かは関係ない。防御する方法がないのが悔しいところだけど、言葉を変えれば、プライバシー保護に関しては、まだまだ発展の余地があるということだ。この分野がこれから強化されていくことを願う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。