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では、おっぱいの話をしましょう

『言葉は万能じゃない』ってことについては、前も少しここで書いたようにも思うのですが、『言葉の持つ力』について、今一度考えてみようと思う。

 まずは定義から――言葉は地球上の生物の中でもっとも高度なコミュニケーションツールであり、人の脳は言葉を操るために発展したと言っても過言ではない。

 言葉と身振り手振り、口調や表情、使う言葉の順序や強弱、時に絵を描いて説明することで自分の気持ちや考えを伝え、また人の気持ちや考えを理解することができる。
 それによって人は実際に見ていない遠くのことや、目で見ることのできない小さなものを知ることができ、或いは思考や感情といった有形物ではないものを理解し、共有することができる。

 故に僕は思う。

 言葉を粗末にする奴は人間としてダメ。

 なんて酷いことを言うのでしょうね。でもこれが肝要。この『言葉を粗末にする奴は人間としてダメ』って言葉は使いどころで人を不快にさせたり、逆に愉快にさせたりすることができる。

 さて、僕はここまで、言葉の定義について長々と書いてきましたが、その前提があればこそ、この乱暴な言葉はただ乱暴なのではないはずだと、僕はある程度期待して書いています。

 丁寧に説明した上であえて乱暴な言葉使いを選ぶことでの強調と納得感と協調を求めているわけですね。ただし、100%その意図が伝わるとも思っていないので、この乱暴な言葉のあと、僕は次のようなことを書いて補足を試みようと思います。

『言葉を粗末にする奴は人間としてダメ』
 だけれども言葉もまた万能ではないので、言葉を大事にしたからと言って、それができない人を批難するというのは、人を大事にしていないのだから、それもまたダメ。
 言葉を大事にする行為はとても人間らしいといえるけれども、では言葉以外の人間らしさを考えたとき、あなたの笑顔は言葉以上に何かを伝えるだろうし、あなたのしゃべり方は人を楽しくする。言葉に頼らないこともまた、大事なことなのだ。

 ここまで読んでもらってようやく僕の立場、考え方、感じ方を理解してもらえるのだと思います。そしてこれでもまだ不十分だと思うからこそ、このような場所を借りて、僕は言葉を尽くして知ってもらおうと努力をする。
 その努力が報われるかどうかは、『スキ』がいっぱいつくことや、始めましての方が読んだ足跡を残してくれたこと、ずっと読み続けてくれている人の『スキ』も、とても励みになる。

 たとえ努力が報われなくとも、動機や持続するエネルギーにそれらをすることで、僕はずっと言葉について考え続けることができ、言葉でしか表現できない『心のメカニズム』について、いつか多くの人が共感してもらえるような『まとめ』ができたのなら、この人生も少なからず世の中の役に立てたと自信を持てる。

 自信が持てれば僕が書きたい物語にもよい影響を与えるに違いない。

 過日、こんなことがありました。いきつけのバーで飲んでいるとき、僕はとある常連さんと今世の中に起きていることのいろいろについて随分と熱く語り合っていました。
 そこに隣に座っていたあまり見慣れないお客さんが話しに割り込んできてこういいました。

「なんでそんな話ばかりをしているのですか。もっと前向きな話をしましょう」

 正直に言えば僕はカチンと来てしまったのです。「あなたにとって前向きとは何ですか?」と聞き返しそうかと思っている矢先に常連の彼が低調に低頭に彼に謝ったのです。
 僕はさらにカチンと来ました。何に腹を立てたかと言うと、うっかり相手のことをやり込めてやろうかと考えてしまった自分にです。すっと力を抜き、僕はこう切り替えしました。

「では、おっぱいの話をしましょう」

 これには伏線があり、そのお客さんは別の人とどちらかといえば下世話な話をしていたのです。彼の『前向き』とは、すなわち酒を飲んでいるときくらい、小難しい話はしたくないし、聞きたくないということだったのでしょう。
 しかし僕は僕で後ろ向きな話をしていたつもりはまるでなかったので、話に割り込まれたことよりも、その『前向き』という言葉の使い方に腹を立てたのだと思います。

 この感じ方がつまり、余計な摩擦を生んでしまう原因になってしまうことがある。『言葉を粗末にする奴は人間としてダメ』という言葉を、こんな場所で言いでもしたら本当に空気が悪くなってしまう。

 この日、常連の彼とはまず、音楽の話をしました。いろんなアーチストや楽器、ギターのピックアップはシングルコイルとハムバッカーどちらが好きか、ジャパニーズ・ビンテージはやはり素晴らしいだとか……。

 隣でまったくわからない話で盛り上がっていて、自分も参加したいができない彼の気持ち。そこから巷で話題の新型ウイルスの話や免疫の話、ネットでの誹謗通称やSNS、テレビ番組の制作方法など、常連の彼とはそれらに対して、僕らはこれからの世の中のことを話していたつもりであっても(もちろん『前向きな話』をしたくてしていたのではなく、情報交換と意見交換でしかない)、それが前向きに聞こえなかったのか、或いは『前向き』という言葉には意味も大意もなく、話の流れを変える為の単なる否定語――『だけど』とか『しかしながら』くらいのつもりで使ったのかもしれない。

 言葉は万能ではないとわかっていながら、僕自身には拘りがあり、このような場面で話に割り込みたいのなら、『もう少し明るい話をしませんか』と言ってくれたなら、僕も素直に『ごめんなさい、少々熱く語りすぎました』となっていただろうなと思うわけです。

 なるほど少し明るい話は、確かに前向きだ。

 おっぱいほど、前向きではないですがね。

 ふとこんな言葉が脳裏をかすめます。

 失敗だと思うな、おっぱいだと思え!

 おっぱいという言葉には、本当に力があるのかもしれませんね。

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