賢くありたいという呪い

呪いなのかなんなのか
賢くありたいという願望がある
賢くみられたい というのが適切かもしれない

賢さとは何なのか という定義は一旦おいておいて

なぜ賢くありたいのか を考えてみた

だって世間ではそれが求められているし
だってその方が評価されるし
賢くないとできない人みたいだし
できない人にはなりたくないし

だから「賢い」ことにこだわって
でも賢くない自分を知っているから
自分が傷つかないように
馬鹿であるアピールをして
たような気がする
自己卑下することで自分を守ることができるから
このことにとっくに気づいているのに未だその癖がある

でもこんな姿って全然賢くない
周りからの評価によって「賢さ」を求めたことはわかってきた
じゃあ賢くなくていいか?と自分に問うと
否。賢くありたいと思うじぶんがいる

じゃあ私が求めてる賢さってなんなんだろう

言葉を適切に使えること
自己評価と他者評価を混在させないこと
ありのままを知って
無知を受け入れられること
無知である自分を受け入れてそこから進めること

他者からどう評価されるかが自分の中で大きい
でもそうでない自分がいい
私が私を評価した時に満足できる私でありたい
フラットな私でありたい

というか評価なんてどうでもいいって自分になりたい

今日あっちゃんのYouTubeを見た
30代の過ごし方的な本の要約のやつ
ふと目に入った 

30代前半は「評価されたい!」が強い時期らしい
私前半を過ぎたけど
でも
「あ、そういう時期だったのか」と評価に飢えている自分を許せた
自分の人生を振り返ると全体的に経験するタイミングが平均より2、3年後である傾向があるから、30半ばの今その経験をしていることは不思議じゃなくて

じゃあここからどうしていくかでこの後の30代が変わるなって思った

評価に振り回されないために
自分をちゃんと棚卸する
向き合うことをやめずに何度も棚卸する
そして自分の得意と不得意 好きと嫌いを
鮮明にしていく

そしてそれを公言する

まずはそこからやろう
「賢くありたい」という呪いを
この先の呪いにしないために

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