丁寧な暮らしと自己実現的人間

少し前まで「丁寧な暮らし」という言葉に対して「ひどい強迫観念に囚われた窮屈そうな暮らし」だな、という偏見をもっていた。

いつでも部屋をきれいに保たなきゃとか、
選び抜かれたおしゃれな皿を使わなきゃとか、
無駄なものを持たずに積極的にものを捨てなきゃとか、、、

だけど松浦弥太郎氏の
「しあわせを生む小さな種」を読んだり
実際に身近で「丁寧な暮らし」のようなものを実践している人を観察して

確かに「丁寧な暮らし」の実践の先にそういうぴかぴかの状態に行き着くことはあるかもしれないけど、それはあくまでただの結果で
その行動自体を「しなきゃいけない」という価値観はそこに存在しないことに気がついた。

そして運良くそのときわたしは平行して
マズローの「人間性の心理学」を読んでいて。
これはマズローのかの有名な欲求5段階説について書かれている本で(↓これ)

画像はhttps://www.jimpei.net/entry/masloより拝借

この本に書かれてるのが
まあものすごく雑に言うと
「より健常な心をもった人間はより高次な欲求段階にいる」ということ。

その高次な欲求段階っていうのが
「自己実現欲求」の段階。
これも超雑に言うと
「より自分自身であることを求める欲求」というかんじ。

メンタル激弱で毎日不安でいっぱい、
人と関わることがすごく怖いわりに
心を開いた恋人なんかにはドン深い愛情や承認を求め続けて満たされない続けるわたしは
完全にこれでいう低次の欲求をさまよってる。

どうやら他人や環境に欲求の矛先を向けること自体が欠乏(足りないもの)を求め続ける欲求であって。
それを求めてる段階に居続けるということは
つまり満たされない続けるということらしい。

逆に言えば、「自己実現欲求」のような
自分自身の成長への欲求は
満たされ続ける状態ということだと。

なるほど。メンタル回復のためにも、
なんとかしてより高次の「自己実現欲求」の段階にいきたいところ。

さて。
なぜ急にこんな小難しい本の話をし始めたかというと、
この「自己実現欲求」の段階にいくために
「丁寧な暮らし」はすごく相性がいいんじゃないか?と気付いたからだ。

「丁寧な暮らし」の実践において行うことはただひとつ、
「丁寧に暮らす」というスローガンのもとに「暮らす」こと。

そのままじゃん、て。
ね。

どういうことか説明するために分解すると、
「丁寧に」という部分はマズロー的に言うと
「意識的に、かつ自発的に行う」ということ。

自分が、より自分自身であるために
なにかをこだわって選んだり、
自分を労った行動をすることを
自分自身の意思でやってるという意識をもつ。

「暮らす」ということは、
服を着たり掃除したり洗濯したり料理したりしなかったり。毎日当たり前にしていること。

つまり、日常の1つ1つの生活を
意識的に、かつ自発的に行なっていく、
しかもその自覚(自分は「丁寧な暮らし」をしてる!)をすることで自己実現欲求を顕在化して、満たす段階のループに入ることが出来る。

そして、「暮らす」という
日常的に接触ポイントも多くて(当たり前だけど)成功率も高い行動でその欲求を常に満たし続けてあげることで自分で自分を満たしてあげることができる。

と思った。
やばい、難しくなっちゃった。

マズローの「人間性の心理学」については
また後日じっくり真面目に書くとして、

「丁寧な暮らし」については
まあ、あの無理してるようにも見えてしまう「世界観」を自分に強要するものでなくて
自分自身のために「丁寧に」「暮らす」その意味においてはかなり心に有効な考え方なんじゃないのかな、と思う。

仕事とか心の疲れとかで
部屋荒れ放題、ご飯も連日コンビニ飯みたいなタイミングもたくさんあるけど、
それでもわたしは今「丁寧な暮らし」を出来る限りでしてあげることでちょっとはましな心が出来てきたと思う。

丁寧な文章とはお世辞にも言いがたいnoteになってしまったけど、本日は以上。
おやすみなさい。

本を買ったりします