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瞑想で涙!?無理して我慢して生きている自分に気づく

51歳で初めて休職して不安障害の治療中。少しでも前向きにと思い、YouTubeのエイブラハムの引き寄せの動画などを見ていて、自分も実際に瞑想をしてみることにしました。

実は、20代から30代くらいの頃には瞑想を日常的によくやっていたのですが、最近はめっきりしていません。不安障害の今、久しぶりに瞑想したらどうなったでしょう?というのが本日のテーマです。

これまでの記事で、休職に至る状況なども綴っておりますので、あわせてご覧いただけると嬉しいです。

なぜか瞑想で流れる「涙」

久しぶりに瞑想してみました。以前はよくやっていた感覚です。ところが、しばらく続けると、なぜか目頭にうっすらと涙が出てくるような感覚を覚えました。不意なことで「なぜ?」という感じです。泣く意識は全くないのに目に水が溜まったようになってきます。

その感覚は、瞑想を続けるに従ってリアルな涙へと変化していきました。そしてとうとう、つぶっている目からポロリと涙がこぼれ始めます。すぐに収まるだろう。最初は、そう考えました。なにしろ、泣く理由がわからないから。

しかし、涙がこぼれ始めて、別の気持ちが湧いてきました。しまいには、気持ちが高まって瞑想どころでなくなりました。わんわん声を上げて泣き始めます。幸い家の中は自分一人。家中歩きながら、わんわん泣きました。はたから見ると、まるで幼稚園児です。51歳にして幼稚園児です。

自分の中に二人の自分がいる感覚

瞑想しながら、突如として高まった自分の感情。それは、今まで無理して我慢して生きている自分に申し訳ない、すまない、といった感覚です。無性に自分に「ごめんね」と謝りたくなりました。「ごめん」と思った瞬間に、ワーッと感情が弾けたのです。ごめん、ごめん、と心の中で謝っていて、それがとても悲しくて感情が抑えきれなくなりました。

不思議に思ったのは、自分の中に二人の自分がいてコミュニケーションしている感じがしたこと。

すごく我慢してやらなければいけないことを自分に必死にやらせようとしている自分が一人。そして、その意思を受け取って、つらくてもなんでも忠実に意思を形にしようとする、無心のもう一人の自分。前者のやらせようとしていた自分が、ごめん、ごめんと謝っていたのです。

エイブラハムの動画の中では、川の流れに沿って進むのが有りたい生き方といいます。なのに、流れに逆らい上流に向かって一生懸命にボートを漕いでいる自分に気づきました。川の流れに従っているかどうかは、気分がいいか悪いかという「感情」が道標です。昨今の私は、自分の感情を無視して、そして自分を騙して、いやなことを我慢して仕事を続けていた。それに気づいて無性に謝りたくなったのです。

20代や30代の頃は、仕事に夢中になれました。気分が良かったのです。自分の気持ちに嘘をついて仕事をしてなかったと思います。仕事もどんどんいい方向に進んでいました。でも、いつごろからかわからないのですが、その感覚が変わっていたのです。「やらなければならない」「こうしなきゃダメなんだ」と強引に自分に思い込ませて無理やり生きている自分。不安障害を患って瞑想して、ようやくそこに気づいたのです。

Pedro Figuerasによる写真: https://www.pexels.com/ja-jp/photo/626165/

エイブラハムを信じて瞑想を続ける

エイブラハムをご存知の方は、ちょっとこれがスピリチュアルな考え方であることを理解されているのではないでしょうか。

私は、エイブラハムとか引き寄せの考え方は、30代の頃からあまり違和感なく受け入れていました。しかし、知らぬ間に、そんな自分をどこかにおいてきてしまったようです。いや、むしろ自分自信でこの病気を引き寄せてしまったのです。

51歳にしてメンタル疾患を患う。休職で仕事から離れる。この自分がもう一度、引き寄せの法則を実践し直す。

この先、どうなる?

後で振り返ったときに、この病気は自分の人生に「必要だったのだ」と笑って話せるまで、エイブラハムを実践し続けたいです。

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