望み

久しぶりにひとり映画をしてきました。

一番近くのイオンシネマで興味があるものを観ようと思い、選んだのは『望み』

【あらすじ】
一級建築士の石川一登とフリー校正者の妻・貴代美は、一登がデザインを手掛けた邸宅で、高校生の息子・規士と中三の娘・雅と共に幸せに暮らしていた。
規士は怪我でサッカー部を辞めて以来遊び仲間が増え、無断外泊が多くなっていた。受験を控えた雅は、志望校合格を目指し、毎日塾通いに励んでいた。
冬休みのある晩、規士は家を出たきり帰らず、連絡すら途絶えてしまう。翌日、一登と貴代美が警察に通報すべきか心配していると、同級生が殺害されたというニュースが流れる。
警察の調べによると、規士が事件へ関与している可能性が高いという。
行方不明者は三人。そのうち犯人だと見られる逃走中の少年は二人。
息子は犯人なのか、それとももう一人の被害者なのか。

私は、昔からこと加害者側が気になる体質で、そう思うようになったのはいつからかは分からないけれど、
犯罪の加害者について漠然と考えるようになったのは神戸のあの事件からであるような気がする。
加害者である少年は、自分と同い年だった。
なぜ、自分と同じ年頃の子があんなにも恐ろしいことをするのか、と怖かった。とても。
怖いがゆえに私は『理由』を求めた。
おそらくこれは人間の本能的なものであろうと思う。

被害者側の結果は同じだ。
傷つけられ、損なわれる。
だが、傷つける側は多種多様であり、それが正義なのか悪なのかすら私たちには判別できない。
これ以上傷つけられ、損なわれる人を増やさないためには、その多種多様な部分の解明(または理解しようとする努力)が不可欠なのだ。
それが、いじめであれ、パワハラであれ、事件であれ。


『生きているが加害者』として戻って来るか
『被害者だが死んでいる』か

これは究極の二択と思いがちだが『親』という目線で考えれば答えはひとつしかない。
これは私も親になって初めて知った感情だった。
自分の命をかけることができる、という感情だ。

子どもが出来る前は、頭では理解できるがきっと実行できなかっただろうと思う。
親ですら、自分の命を賭すことはできない。
だが、子どもであればできる。躊躇なくできる。
この感情を思い知ったのは、息子が熱性けいれんで救急搬送された時だ。
息子は急に白目をむき、泡を吹きながら痙攣し、意識不明の状態となった。
息子は夫と一緒にいたので、私は一人で搬送先の病院へ向かった。
向かっている間、全く生きた心地がしなかった。
その時強く思ったのは、月並みだが『自分の命をあげたい』ということだった。
だから多分、わたしは生きている方を望む。

しかし、幸せなのは被害者かもしれない。
憎むべき対象がいるからだ。おそらくそこから先の原動力は『憎しみ』になるだろう。
こういう言い方をすると非難されるかもしれない。
だが、非難する人はおそらく、自分が『加害者』側になった時のことを考えることすらできない想像力の欠如した人である。
常に被害者側でしか物事を考えられないのはある意味罪深いことだ。
被害者に寄り添い、相手を非難し続けることは簡単だし気持ちがいいから。

加害者の親になった時のことを考えてみよう。
映画にもそういったシーンは多く出てくるが、世界が反転してしまったかのごとく、全世界が自分たちに牙をむけるだろう。
『普通の生活』は遠い過去のものになり、今後は常に『奪われる側』もしくは『奪っても構わない側』の人間として生きて行かなければならない。
人としての権利は当然はく奪され、見も知りもしない人たちからありとあらゆる攻撃を受け、逃げ場などどこにもない。
守りたいものも守れず、自分の無力さに絶望するだろう。

彼らは加害者だろうか?被害者だろうか?
一体誰が加害者で、誰が被害者なのか。
その境界線は曖昧で、脆い。

そういったことが、割とリアルに表現されているので、
今まで事件があった時に、加害者側に立って物事を考えたことが無い人は
ぜひ観て欲しい映画だ。
エンターテイメントを求めて観る映画ではない。
ただ淡々と、息子が居なくなってからの家族と社会の様子が描かれている。

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