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めんどうなことばかり考えている

最近、東京では急激に寒くなり、それが何日か続いている。

ずっと天気がどんよりとしていて、外に出るのも億劫になる。

まあ、このご時世では、その「億劫さ」こそが美徳であり、自制として保つことが奨励されるのかもしれないが。


兎角こんな毎日では家から出たくないが、最近はどうにも自炊する元気もなくて――「元気」のなさについてはいずれどこかで触れるつもりだ――、そうなると必然、ご飯の調達方は限られてくる。

我慢して外出して、コンビニなどで買うか外食するか。

あるいは、Uber Eatsや出前館などの出前サービスを使うかである。


しかし私には、この出前サービスを使うのもまたどうにも億劫だった。

出前サービスには、食品の運搬を担う「誰か」が存在している。

もちろん、サービス自体が上記のような理由などによって家から出ずにどこかの料理を食べたいというニーズを満たすよう設計されており、上記のような「億劫さ」を理由に利用することは何ら不思議なことではないだろう。

だが私はその「誰か」が、私の利用によって、この寒空の下に駆り出されることが申し訳なくて、使うのを躊躇してしまうのだった。

出かけるのも、服を着替えるのも、何もかもが面倒だけれども、それならば自分がコンビニに行くよ、と――。


これは、今に始まったことではない。

私は夏にも同じようなことを言っていた。

気温がひどく高くて、家から出たくない茹だりそうな日にUber Eatsを使うのは果たして「悪」なのかどうか、という話だ。

その熱中症の危険や労力は「配送料」のみでペイされうるのか、そこに搾取構造はないのか。チップをどの程度払えばその不均衡は改善されるのか。しかし、そうして価格を積んでまで利用したいサービスでもない――。

知人にこの悩みを話したとき、彼はそれを「君、面倒くさいこと考えるんだね」と一刀両断した。


まさに彼の言うとおりだった。

私は面倒なこと――あるいは、面倒に――ばかり考えてしまう。

このことばかりではない。私に関して言えば、いつも、そうなのだ。


少し前、出張するかもしれない、という機会があった。

そのプロジェクトのクライアントの本社は別の地方にあり、実際に訪問するには出張するほかなかったのだ。

しかし私は、例の感染症への感染者が日々増えているこの状況下で、出張など果たしてできるのだろうか、と危惧していた。

だが、私以外のプロジェクトメンバーは誰もそんなことを心配していないような素振りなのだった。

そして私がその懸念を口にすると「こいつ、ビビってんですよ」などと笑いものにされた。

果たしてその出張は、感染拡大の影響を受けて中止となったのだが、私が口にしても笑い話で終わった時点でやはり無用の心配だったのだろう。


その他、メールを書く際にも、単語ひとつとっても、どのような意味にとられるか、これひとつで受信者が激怒しやしないか、と、別に社外に出すのでも、謝罪のメールでもないのに2時間ほど悩むことがある。

チャットをひとつ送る際もそんな調子で、文面をまずテキストエディタで熟考するようなこともある。

名刺交換はいつも「マナー」に忠実に行えているかどうか不安で堪らず、またその心配に気を取られ、会社名か自分の名前か「よろしくお願いいたします」のどこかで噛んでしまう。


冷静に読み返すと、なんだかどんどん話がずれてきたような気もするけれど、これらは私の中では全てつながったことであり、煎じ詰めれば「いらない心配ばかりをしている」という一文に集約される。

いらぬこと、無用なこと、つまり「面倒なこと」ばかりを考えている。

Uber Eatsを使うべきかどうか。

そんな些細なところに留まらず、私の「面倒さ」は様々な場面で発揮されている。

毎度毎度バカみたいだな、と思う。

果たして懸念していた通りになるのだとしても、私がそれを口にしたとしても、状況は変わらぬまま「懸念通り」に行き着いてしまう――すなわち、私ひとりで何か変えられるわけでもないのだから、やはりそれは無用なのだ。


些細なことから仕事のことまで、いつも「面倒」に考えて、いつも頭はこんがらがっている。

性格なのか、思考のタイプなのか。あるいは、それらは同じものなのか。

万が一、それを治せる夢みたいな薬があるとすれば、今もっとも欲しいものの一位と言っても過言ではない。

もちろん、それは夢また夢で、そんなものはありえないと思っている。

これもまた、「面倒なこと」を考える、その一例である。


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