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あの花で泣けないなんてありえない

その日、私は同期入社の三宅と一緒に帰っていた。

遠くの会社への訪問を終えた私たちは、互いに黙ったままなのも気まずく、盛り上がりこそしないものの、ぽつりぽつりと会話をしていた。

不意に三宅が「好きなアニメなんなの?」と訊ねてきた。

記憶が正しければ、「お前、なんか感動して泣くとかあるの?」みたいな話の流れだったと思う。

まあ、これまたムカつく話だった。


「感動」というと、やはり風景や音より物語らしい。

そして、小説とか映画よりもアニメらしい。

なるほどもはや私たちの世代では、アニメがむしろポピュラーなんだろうか、などと考えていると、訊ねてきた三宅が私は回答を待たずして、「『あの花』見た?」と追加で訊ねてきた。

「見た」と答えると、三宅は間髪入れず「あれ泣けるよな?」と、更に訊ねて、そしてまたもや私の答えを待つこともなく、「あれ、俺めっちゃ好きなんだよね」と語りだした。

ああ。その話がしたかったのね、と私は思った。


「あの花」は2011年に放送されたテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』の略称である。

簡単にあらすじだけさらおう。

高校受験に失敗し引きこもり気味の生活を送っていたじんたんの元に、ある日、死んだはずのめんまが現れ、「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。めんまの出現を機に、小学校時代の仲間ら(超平和バスターズ)の人生は再び交差していく――。

この作品は放送時から大変人気を博した。

だから、三宅が「あれ泣けるよな?」と作品名を挙げても何ら不思議ではなかった。


作品への愛を語るだけ語った三宅は「『あの花』さ、泣けるよな。どう思う?」と、再度私に訊ねてきた。

白状するが、私は、「あの花」にそれほど感動しなかった。

このとき私は嘘をついても良かった。

「あれはよかったね」。それで丸く収めようとしても良かった。

だが、それをするには三宅の熱量がネックだった。

なるほど。そのターンは「あれはよかった」で住むだろう。

しかしその後はどうだろう。そこで「語ろうぜ」とか言われたら、私には対処する術がないのだった。

だから私は素直に「実は、自分はそうでも……」と告白した。


「あの花」は面白い作品である。それは認める。

何故あのアニメが人々を感動させ、また何が心を掴んだのかも理解できる。

しかしそもそも、小学校という地縁性を背景に成立した共同体=超平和バスターズというモティーフに――それがめんま=幽霊を含む彼ら自身の歴史に媒介を変えるのだとしても――私はどうにも心惹かれなかった。

それはお前が小学校時代に良いイメージを持っていないからだ、と非難されればそれまでなのだが、そういう話は今は措こう。

兎角私は、「面白い」と思いつつも、どこか乗り切れなかったのだ。


「え、どうして?」と三宅は訊ねてきた。

そう言われても「どうしても」としか答えようはない。

しかし、それでは納得しないだろうから、と私は上記のモティーフについての意見を述べた。

すると彼は少し考えたあとで、こう言った。

「いやお前さ、そういう『分析してます』みたいに斜に構えて、あんまり感動しない人間ですみたいな中二病みたいなの、ダサいよ」


ある作品にハマれなかっただけにしては、なんとも酷い言われようだった。

「そういうわけでもないけど、うーん」と、答えるのが私には精いっぱいだった。

歯切れの悪い私に、三宅は「あれ泣かないのはおかしい。絶対に泣く」と、絶対に譲る気のないことをアピールした。

べつに「あれで泣くやつはおかしい」と言っているわけではなかったのだが、私は特に反論しなかった。

こういうときに熱く言い返さないことが、「冷笑主義的」という評価の論拠になっているのではないか、とは帰宅してからようやく思い至ったが、まあ、あとの祭りであった。


これを機に、私は「『感動しません』キャラ」としてしばらく扱われることとなった。

そのキャラにも飽きたのか、今となっては特にそう扱われることもないのだが、この件については「不当である!」といまだに思う。

私がなにに感動して、なにに感動しないかは自分で決める。

こんなの、本来それで済むような話じゃないか。

『宇宙よりも遠い場所』とか超絶泣けるし。軽く死ねるし。



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