もったいない、という気持ちが憎い
去年の今頃は、こんなことになっているだなんて想像もしていなかった。
もっと早く事態は終息し、また元と似たような生活になっているのだろうと思っていた。
しかし現実には、3度目の緊急事態宣言は延長され、適用される都道府県が拡大され、そして私はいまだに在宅勤務を続けている。
在宅勤務であることを人に言うと羨ましがられることも多い。
やっている当人からすれば「そんな良いことばかりではないよ」と反駁したくもなるけれど、羨望が向けられる理由も分かる。
いつだって、隣の芝は青く見えるものだ。
それに私自身、在宅勤務の「恩恵」を受けていると感じる場面は数多くある。
通勤時間の分プラスで寝られるとか、服装がラフでも良いとか、面倒くさいおじさん社員からのハラスメントを受けなくても良いとか。
中でも私が気に入っているのは、業務時間中に音楽やラジオを聴いていたとしても、誰にも咎められないということだ。
芸人の話すラジオは面白いし、邦楽ロックは好きなので、この点は非常に満足している。
ただ、ちょっとだけ思うのだ。この時間をもっと、他のことに使えなかった者だろうか、と。
仕事をサボって何かをしようというわけではない。
ただ、もっと他の何かを聴けなかったか、ということだ。
例えば、落語を聴いていれば、あるいは一つぐらい演目を諳んじられるようになったのではないか、とかそういうことだ。
落語を憶えられたとして、なにか明瞭なメリットがあるわけではない。
そもそも披露する宛はないし、また披露する気もない。
ただなんとなく「もったいなかったかな」と思ってしまうのだ。
ここには、なんらか役立てるべき、というイデオロギーみたいなものが関係しているのかもしれない。あるいはそれは、「成長すべき」という言葉に置き換えても良いのかもしれない。
時間は有限であり何かのために役立てなければならない――というような。
芸人のラジオが今週も面白かった。
ストリーミングで聴いた音楽が今日も素晴らしかった。
本当は、ただそれだけでいいはずなのに。
私は、「成長」という言葉が嫌いだった。
なにかにちょっと「慣れた」だけのことを大仰に語りすぎている、ナルシスティックな言葉だと思っていた。
しかし、蓋を開けてみればどうだろう。
なにか教養――先述の落語の例がわかりづらければ語学でもいい――のために時間を使うべきだったのではないか、と悔いる気持ちが芽ぐんでいる。
現在進めている転職活動の面接でも、気づくと「聞こえが良さそうだから」という軽薄な理由で「成長」と口にしている。
私もまたそのイデオロギーから自由ではなかった、ということだ。
もったいない、という気持ちが憎い。
気分が良かったはずのこれまでの時間に、まるで泥を塗るみたいだから。
課せられたミッションをこなし、気分も悪くない。
それだけで、人生はまさしく上々ではないか。
もったいないオバケが幸福を蝕むのが、そのオバケを私自身無自覚に飼っていて、屹度このまま手放せないんだろうな、と予期できてしまうことが、今の私はとても悲しい。
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