見出し画像

silence offBeat

沢山書いたが一度閉じた。

読み返し、「ふむふむ。」と思いつつ、腹が減っているので、すぐに「お昼何にしよう。」へと切り替わった。

次第に、文面から伝わってくる
"書いている時には沢山思っていたのだろうな"
という感が何とも言えない気持ちにさせる。

音やメロディーは即効性がある。

バンドであろうとDJであろうと人が発し操作するものからは、どうしたってフィジカルなエネルギーが溢れている。
そしてそれは、瞬間的に作用し爆発する。

では言葉はどうか。

言葉は一度脳というフィルターを通り時間差で作用する。
正直ビートさえなっていれば体は動く、しかし言葉はそこに節を生む。
節は繋がり、物語や情景に変わる。
それを"みて"(それは当然物理的な"見る"ではない)初めて感情が動き出す。

歌における詩はメロディーを纏い、ビートのランウェイを煌びやかに歩く。

しかし、同じ詩であっても紙の上で静止すると全く違って見えてくる。

違って見えるというか、持つ役割そのものが異なる気さえする。

静寂の中にある言葉は、知ってもらおう、伝わって欲しいと懇願すればするほど滑稽で、逆に距離を保ちたくなる。

だから、声高に善き話をしようとする文があまり好きではない。

自分からも時折滲み出る、半端に寄り添うような言葉は、実際の所体温より冷たい。

何を伝えようと思ったのか、別に伝えたい事も無いのだけれど。

とにかく、個人的に言葉を文章に表す時には、適切な距離感と温度感が欲しいと感じてしまう。

言えなかった言葉は、言えなかった故に悲しくも美しく遺り続けている。
そう考えると、言えなくて良かったのでは無いかと思う時が往々にしてある。

存在しないという事実が存在しているからこそ、我々は希望的観測で延命する事も、早々に離脱する事も出来る。

「消した言葉」という休符を自分にしか読めない譜面に落とす。

行間を読めというように、休符を聞けといったりもする。

140文字に怒りや焦燥ばかり、まるでケツの穴を見せるかのように、むやみやたらに撒き散らす。
そんな事に発散方法を頼るのではなく、少しでも建設的にいたいものだなと再認識する。

しかし、この、言わなかったこと、言えなかった事は決して忘れてはいけない。

機が熟した時、ただの怒りや焦燥ではなく、俯瞰し、捉えて、紡ぎ、像を成すように。

消して忘れないように刻め休符を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?