一杯の珈琲を
何かあった時、誰かに伝えたくなることは無いだろうか。
例えば天気の良し悪しだったり、映画を観て感銘を受けた時だったり、良かったこと、最悪ぅ~ってこと、些細なものから、重大な事まで。
単純な伝達というよりは感情を織り交ぜた「ねえ聞いてよ。」
雑多な言い方ではあるがそのゲインをブーストさせたものが作品であると思っている。
完全な創作でも、ノンフィクションでもそこには、作者の素(感情や思想)が紛れている。
そして、作品が生まれる時には、無意識下であろうと、アイデアが発芽する種=出来事が存在する。
皮肉なことに私の周りには「負」からの「攻」、「陰」ありきの「光」を表現する人が多い。
一見穏やかなラブソング一つとっても、80%以上が失恋である。 *当社比
会いたくて震えるのは、シンプルな愛おしさではなく、
失恋(≒依存)の辛さから逃れるために過度な飲酒と、眠剤の常用の結果、「こんなんじゃダメだ!」と、何とか酒&薬断ちしようとするも禁断症状が出てしまう震え、の人達なのである。
「の人達」と括ってしまったのは流石に暴論だと反省するが、
表現という手法を使ってまで何かを伝えようとする人達は、それはそれは幾重にも重なったレイヤーとそれら一つ一つに喜怒哀楽があるということ。
それに作品を発表し続けるという事は、それだけセンシティブだという事。
話を戻すが...
という事は私の周りに多い人たちは、そういった負の出来事(負に感じる出来事)に頻繁に直面している訳である。
以前にも書いたが、幸/不幸の量を測る基準などは無く、ただの事象としてそこに存在している。
どいう事かというと、沢山不幸な経験をしている人が作品を作れるのではなく、
沢山の不幸を認識できる人、
ポジティブな事でもネガティブな事でも人一倍感じ取ってしまう人、
こそ作品を生み出せるのではないかと思う。
何故そうまでして...と思うような仲間たちが多くいる。
くじ運が奇跡的に悪いのか?自分から火の中に飛び込んでいるのか?
ロジカルな自殺か?それともホンマのアホか?
本当の所は分からない。
しかし、彼や彼女達の作品の多くは、目には見えない(冷や)汗や血や涙や粘液の跡が付いているのは確かである。
あなたが、音楽や本や映画や絵に写真、何でも良い。
誰かが作ったものに触れる時、受動的なだけでなく、
作者の「ねえ聞いてよ。」に耳を傾けると、もっと味わい深く、もしくは今までと違った感じ方が出来るかもしれない。
その時、彼や彼女たちの生み出した作品は、同じ経験をしたあなたを包む毛布にもなれば、これからを示す教科書にも、高く飛ぶためのロイター板にも、酒の肴にも、薬にもなるかもしれない。
今日も誰かが泣いている。
こぼれた涙が乾いた机、その上にはとても綺麗な花が咲いている。
全ての伝えたい人々に尊敬を。
今日もお疲れ様。
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