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気付けよ さらば与えられん

自分は結構のせられやすい人間である。
おだてられたりすると、恥ずかしさから「別に。」とか「いやいや、まだまだ若輩者ですよ。」とか謙遜してしまうが、その実
"そっ、そうかな?うひひひ..."
などと、真に受けてひっそりと喜んだりしてしまう。

noteのフォロワーが増えている。殆ど記事もUPしていないのに。
恐らく広告目的であったり、何かそういった実働していないアカウントであったりするのかもしれない(情弱)が、気分を良くしてしまった。
まさに"のせられた"ので、活動休止中も、あくまで個人のブログとして時々なにか書いていければと思う。

最近、幸か不幸かについて考えさせられる場面によく出くわす。

そもそも、幸せや不幸について明確な基準など存在しない。
酒飲みは毎日飲みたいし、下戸は一滴も飲みたくない。

唯一我々に共通している事は、幸福だと感じる、不幸だと感じる、それら"感じる"という選択肢。
眼前で起こっている事象は、上司がキレていたり、お気に入りの服に謎のシミが付いていたり、500円拾ったり、あたりのアイスの棒だったり...
全てただの出来事にしか過ぎない。

どう捉えるか、どれぐらいの深度で考えるか、全ての操縦桿は自身の手に与えられている。

幸福に取舵一杯きれば幸せに、不幸に面舵一杯きれば不幸に。
それは残念なことに、ただ起こった事象に基づいた自身が作り出している感情でしかない。


ってそんな事分かっとるわ、と。
周りが何と言おうと、上がったり下がったりするもんはするんじゃ、と。

しかし、重要なのは"選択肢の絶対的主権は自分にある"という気付きであり、自覚の維持なのではないかと思う。

感情をコントロールできなくても良い。
ただ、「おい。お前(多くの場合は負の感情)、別に無視したる事も出来んねんぞ。こんな時間(多くの場合は深夜)にラーメンでも食って発散して、お前をどこかに追いやる事も出来んねんぞ!!」
という余裕、心のあそびが一瞬でもあれば完全勝利。

我は、感情の王様や女王様なのである。

どう傷つこうと、どう笑おうと私や君の自由なのである。

それは不可侵で、美しい。

けれど、我慢し続ける幸福や、飽きてしまった不幸を、いつまでもそばに置いておく必要は無いのかもしれない。

気付いた時が考え時。

肩の力をフッと抜いて、舵から手を放し、帆に任せ、デッキに寝転がりながら星に行く末を問うのもまた一興。
別に思いっきり舵を切って、もと来た道を引き返しても良い。

世界は思ったよりもくだらないし、きっと時計はこっそり休んでいる。

少し暖かくなれば、楽になる気持ちもあるよ。

きっと。

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