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【短編】ある猫の日

 窓のそばに置かれた椅子、陽にあたるそこは程よく暖かくて心地よい。時計の針は午後三時丁度を。欠伸と伸びをして、何気なく傍のベッドを見ると、そこにも陽が当たっていた。窓から伸びる陽に照らされたベッドの純白の生地がより白く見える。そこで寝ている体も暖かさを感じているのだろうか。いいえ、たぶん感じていない。

 やせ細った手足、白い肌。髪は長いが、あまり手入れできていない髪。寝たきりの女。私の本当の体。今はもう昔の体。
 透明な管に薄い黄色っぽい液体が流れ、それはベッドに横たわる私の体の腕へと繋がっている。ピッピッという無機質な音と、機械で行われる規則的な呼吸の音。時折それらが、病室の傍を走る車の音に紛れ、聞こえなくなる。
 穏やかさのある緩慢な死。それがこっちの体から見る、あっちの体への素直な感想だ。

 病室の扉が開き、看護師が「お加減どうですか」と、ベッドでなく、椅子の上にちょこんと座っている私の方を見て言った。私は、にゃあ。と、返事をする。すると、側で待機していた拳ほどの大きさのドローンが看護師の傍にぶーんと飛んでいって「ちょうど起きたところ。そっちは寝たままだけど」と、空中に文字を投影する。お望みならドローンに自分の声を再現して自然に会話する事も可能です。担当医はそう言った。でもしなかった。自分の声を聴くのが嫌だったから。

 にゃあ、と付け足す。
「体調はまあまあ。今日は昼寝も忙しいくらいね」
「なるほど、それで猫はいつも寝ているのですね」
 看護師が端末を操作しながらクスリと笑った。
 私は椅子からベッドへ飛び移り、今度は後ろ脚の伸びをする。体は軽いのに、やけに重たく感じる。そっちの体のせいだ。寝たきりの体の重さが、こっちの脳で感じられるのだ。そっちの体はそんなこと感じていないくせに。でも、以前よりこの感覚は減ってきている。

「あなたどう?やっぱり今日も大忙し?」
「それはもちろん。やることが多くて」
 そう言いながら、看護師が私のベットの方の体が床ずれを起こさないよう診てくれている。これは少し苦手だ。どっちの体も揺さぶられていみたいで、船で転がされているように感じるから。そんなことやる必要ないって言ったけども、体が生きている以上はしなければならないんだと。
「最近じゃ、それ私の仕事なんですかー?って事とか。なんでわざわざ私なんですかー?なんて仕事を押し付けられることもあるしで……ああ、ごめんなさい。ここで話す事じゃないですよね」
「いいの、気にしないで。猫だもの」

 私は前脚でもう一つの体の方の頬を押す。肉球を通して肌を押す感触と、頬を押されている感触が同時に起こる。この感覚も以前よりずっと減ってきている。前はもっと明確に感じられた。でも今はせいぜい、硬めのスポンジで押されている程度。
「この手でも良いなら貸してあげようか?」
「ふふ、さっそく手伝って欲しいですけど。あいにく猫に回せる仕事がないので」
 そう言った彼女の目は疲れている。そうとう忙しいらしいが、このとおり、私に出来る事は何も無い。だから、少し冗談を言ってみて場を和ませることにくらい。そうすると、私自身もすこし気が晴れるから。
「それは残念」

「そっちの体はどうですか?」
電子カルテに何かを記録しながら彼女が言った。
「なんともない。馴染み過ぎて、むしろ元からこうだったかなって思うくらい」
 私はおもむろに、寝ている自分の体の上に登って、座った。香箱座りというやつ。座わられている方の感覚はと言うと、思ったより苦しくない。人工呼吸だからか、肌の触覚や平衡感覚よりも早くに感覚が失われていっているのかもしれない。
「あ!登っちゃ駄目ですよ」
「あら、猫のやることにケチをつける気?なかなか傲慢な人間であるなぁ」
 彼女が私から私をどけようと手を延ばすので、私は前足でそれを迎撃する。もちろん爪は立てずに、あくまでもソフトタッチで。
 慣れるまではこれも難しかった。何せ子猫みたいに爪が出しっぱなしになってしまうのだもの。
「駄目なものは駄目です。放っておいたら私が叱られちゃいますよ」
「つまり、叱られない範囲ならOKと」
「そうじゃないですよ!」
 彼女が笑顔になったのを確認したところで、私は脇をがっしりと掴まれてしまった。これでは反撃のしようがない。まるで本当の猫のようにベッドから降ろされてしまった。
「どちらにいかれるので?」
 扉の方へ歩き出した私に向けられた看護師の声に反応して、耳が自然と後ろへ向いた。
「少し外に」
振り返らずに言って、ドローンに扉の端末を操作させ、開けさせる。
「猫だからかな。飽きちゃってしょうがないの」
「さっきは忙しいって言ってませんでした?」
「飽きて、飽きるほどに忙しいの。だから通りすがりに誰かの机でも荒らしてくるわ。荒らして欲しい人がいるなら今のうちに聞くけど」
「またの機会に。後でリストアップするので」
「そんなに?」
思わず振り返ってしまった。
「冗談ですよ。あまり、遠くには行かないでくださいね」
私は、にゃあ。と、返事してドローンを伴って病室を後にした。この声はドローンに翻訳はさせなかった。

 ドローンが広大な病院内の情報を集め、人のいない場所を導き出す。今日はこっちの公園にまで行こう。そこなら他の入院患者に絡まれることは避けられる。たぶん。
 この体で人と関わるのは面倒だ。とくに子どもは面倒。見つかったら最後、飽きるまで追われるか、捕まってこねくり回される。

 とにかく、一人になりたい。一人になって、ただただ、ダラダラと無為に時間を過ごすのだ。この体でも楽しめる事はそれなりにあるけど。例えば音楽、映画、マンガに小説。ドローンを使えば人の体と同じようにエンタメ成分を摂取できる。でも、今はそんな気分にはなれない。配信サービスのマイリストは増え続ける一方。何を見ようかとスクロールして、小さなため息をついて、それを閉じる。エンタメを楽しむための気力はもしかすると、あっちの体の方にあるのかもしれない。

 あっちの体を誰かが殺してくれないだろうか。そうしたら本当の猫になって、自由になれるのに。でも、野良になったらそれはそれで嫌だな。
 珍しい病気に、確立したばかりの新技術。私はそこに飛びつき、すがる思いで書類にサインした。今にして思えば『好奇心、猫を殺す』とはこのことよ。たぶん。言葉の使い方、あってる?

 この体も悪くない。そう思うのは確かなのだけど。徐々に死んでいく自分を見ながら、そして、それをいずれ看取ることなんて、あの時は想像できなかった。
 昔からの夢の一つだった。『猫になる』は実現した。でも、猫になれば悩みは無くなるって事は無くて、なんて浅はかだったのかなって思う。

 公園はドローンの情報通りにとても静か。ここまで来ると看護師に触られている感覚も無い。近くにあったベンチにひょいと登って横になる。陽に温められてとても心地が良い。陽の暖かさと、これから貪る惰眠の前ではどんな悩みも、ほんの些細な事でしかない。
 私は誰もいない事を自分の目でも確認して、ドローンに『注意、狂暴猫。近づくな』と表示させ、四度目の睡眠をとることとした。

次の話【ある猫の次の日】

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