編集者とものづくりの仕事は、よく似ていると思う。

子どもが生まれて少し経った昨年の春ごろ、ライターとしてお世話になっているwebメディア「greenz.jp」の編集部より、「連載のエディターをやってみないか?」とお誘いをうけた。

エディター。直訳すれば編集者。

私にはライターの経験はあっても、編集者の経験はほとんどない。

いつもエディターから真っ赤な原稿が返ってくるこの私が、はたして他の人の書いた記事にどうこう言えるような分際なのだろうか?

突然の話に戸惑ったけれど、産後半年ほどが経ち、そろそろ社会復帰をしたいと考えていたタイミングだったし、乳飲み児をかかえながらのライター復帰はまだ難しいと感じていたので、在宅OKという条件が魅力的すぎて、30分ほど悩んであっさり引き受けてしまった。

他メディアの編集者がどんなもんなのか、よく分からない。いや、長年お世話になっているこのメディアにおいてさえも”エディター”がどんなもんなのか、全然掴めていない。「全面的にサポートするから」の言葉を全面的に信じ、編集者としての私のキャリアがスタートした。

担当するのは(ほぼ)毎月1記事公開される、10年近く続く連載企画。私も過去、この企画の記事を何度も執筆してきた。

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SDGs推進にも力をいれる大阪ガスがスポンサーで(10年近く前からこの分野のメディア発信に投資するってすごい!)、年度毎に選定する関西のソーシャルグッドな団体をライターが取材し、5000字程度の原稿をつくっている。

エディターって言うからライターの原稿をチェックするだけなんだと思っていたら、決められた取材先に対してどのライターに書いてもらうか、をアサインするのも私の仕事なのだと後から認識する。

ヤバイ。横並びに活動する他の所属ライターのことを知らなさすぎて、大急ぎで各人の記事に目を通し特徴をつかんで…なんて悠長なことをできる時間は、乳飲み児の母にはない。「一度お会いして感じ良かったし…」とか、もう本当に自分勝手な理由でメールを送り、なんとか毎月毎月をつないで…という始まりだった。

原稿のチェックに至っては、やるべきことがよくわからない状態だった。最初の2、3記事は「正しい言葉づかいにする」「メディアのトーン&マナーに合わせる」「文字数が多いからコンパクトにする」「よく読み取れなかったところを”もっと詳しく書いてください”って言う」このくらいしかできていなかったのではないか…。

自分らしさや創造性が見出せないその作業が、毎月少し憂鬱だった。「みんな私なんかに朱書きされたくないだろうな…」と罪悪感も感じていた。だって、私がこれまでお世話になったエディターは、みなさん同時に敏腕ライターでもあったから。さらにはお得意のケアレスミスを乱発し、たくさんの迷惑もかけた。

「来年度は断ろうかな」と思っていた年末、同じくgreenz.jpから別案件のエディター依頼がやってきた。しかも今度は行政スポンサーの連載で、担当ライターはスポンサーご指名の、経験も実績も私とは段違いのお方。

「私ごときが何をやることがあるんだろう」と思ったけれど「最初の読者としてコメントをするくらいの気持ちで良いよ」なんて言われ、「何それサイコーじゃん」と二つ返事をした。我ながら現金なやつ。

ところがいざ始まってみたら、あれやこれやの展開が待ち受けており、気づけば、行政の担当者に「この表現はこうこうこういった意図でして、メディアの読者はこうこうな人たちなので、このほうが響くと思います!」みたいな(あくまで例え)熱い長文メールをガンガン送る日々を送っていた。

デジャヴだった。ああ、編集ってものづくりと一緒なんだな、と思った。

見る人が見たら「板挟み」だと思う。書き手がいて、スポンサーがいて、ルールとか現実問題とかの不可抗力があって。書き手が「ここは絶対に譲れない」と主張するところに、スポンサーが「ここはわかりにくいから変えてください」と言ったりする。どうやって折り合いをつけていくか、が私の役目だった。

それは会社時代、ものづくりの企画をやってた時とおんなじで、あの感覚がふっと自分に戻ってきた。クリエイターの魅力を最大限に引き出しながら、現実的に生産可能で自社らしい商品に落とし込んでいく、あの感覚。

書き手の「ここは絶対に譲れない」ところに共感するなら、その根拠を明確にして、スポンサーに「このままのほうが記事の質が上がります」って伝え、スポンサーの指摘に「なるほど確かに!」と思ったら、その根拠を明確にして書き手に修正を依頼する。

それがどれだけ”スゴイ人”だとしても、いいものをつくるためには、どちらかの言いなりになったり妥協したりしてはいけない行程だということを、私はよく知っている。芸術作品ではない以上、そうやって誰かが真ん中の立場で、いろんな視点を意識しながらつくり上げていくことが必要になるのだ。

その感覚をわかってしまったらその途端、編集の仕事がすごく楽しくなった。「あの人からどんな原稿が来るんだろう?」「そう来たか!」「ここはこの人っぽい視点だからいかしたほうがいいな」「これは不要だな」「この言い回し、おもしろい!」「ここは誰もが読みやすいように簡略化して…」と、どんどん改良策が見える。書き手が”スゴイ人”であればあるほど、一緒につくり上げることが楽しみになってきた。

すると、以前はなんとなくやっていたライターのアサインも、もう結婚相談所の相談員さながら、”相性”を考えるようになった。団体の雰囲気をホームページから「ここの理事長、こんな人なんちゃうか?」と読み取り、「この人と合いそう!」と思ったライターに「あなたと合うと思うんです」って正直に伝えて、依頼する。もはやアサイン(=割り当て)ではなく、”指名”である。

今年度、コロナ禍でオンライン取材が多かったのだけど、だからこそ”相性”を大事にしてよかったと思っている。オンラインはどうしても空気がつくりづらいから、感覚が近い人じゃないとやりづらいと思う。

昨日、久々の直接取材にエディターとして同行したら、ちょっと緊張気味の先方と、ちょっと緊張気味のライターが、話の流れでふと共通の趣味があることが判明し、そこでフワッと緊張が解けた。そこからは二人とも、話が滑らかに進むように。うん、相性って大事。今度の原稿も楽しみだ。

きっと前までは編集の仕事を「ダメ出しすること」と思っていたんだろうな、私。「校正」なんて言葉のせいか。google ドキュメントの校正機能が「提案」と表示されるのだが、あれは良い。正しさを追求するのではなく、人の心に響くにはどうしたら良いか、それぞれの視点で投げかけ合い、編集者はそれらをいったん手に取って集め、吟味し、自分のやり方で編んでいく、そういう仕事なんだな。

編集者2年目、ちょこっとだけ自信をつけて、もっともっとこの仕事を自分のものにすべく、深めてまいりたい所存です。


◎おまけ 私がこのメディアでライターを始めた頃にエディターとして育ててくれたスゴイ人の編集を担当した記事が公開されました。私にとっては思い入れのある記事となりました。


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