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【RaptBlog】そこで神様を信じ続けられる最大の根拠。

もし、だれかに「その人が本当に“神様に遣わされた人”だと信じる根拠は何?」と尋ねられたとする。

そしたら、わたしはただ「その人の信じる神様が与えてくれる愛が本物だったから」と答えるしかない。

でも、そう言ったとしても「愛は根拠にはならない」と言い返されるかもしれない。

そのくらい、愛なんていう目には見えない掴みどころのないものは、第一優先的に信じるべきではないというのがもはや常識ですらある。

なぜ多くの人がそう思うのか。

それは、誰かの愛を一身に信じたところで“馬鹿を見る”のが落ちだからだ。

それなのに、それが分かっているというのに、”馬鹿を見る“人が後を絶たないのはやっぱり、人間がそうやって愛を求めて生きるのが本質にあるからだとしか言いようがない。

人は裏切る。

けれど、神様の愛はそういう類のものではなかった。

そういうものではない、という事はその愛を感じた人であれば誰でも理解できる次元のものだ。

神様を信じて生きる歳月が長くなればなるほどに、自らのなかに生まれた疑念や恐れや不安がその深い愛によって拭い去られるほどに、如何に心から信じるべきであるか分かるようになる。

だから、愛がすべての根拠であり、信じる根拠だ。

もちろんraptさんが伝える啓示や記事も大きな信じる根拠である。そして、それらがなければ神様を知ることすらも叶わない。しかし、信じるうえでは神様の愛が決定打となった。その瞬間から、このために生きたいと決意したのだった。

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わたしは、ここで感じる愛が、そこら辺のカルトがいう「愛」とは一線を画すものであることを説明できる。

というのも、ある宗教団体に所属していた経緯があるからだ。

自分の意思で入ったものではなくて、いわゆる二世信者である。

その宗教団体とはワールドメイトなのだが、母親がその宗教団体の信者だったのだ。

わたしはそれを心の底から信じていたかと言われたら、決してそうではなかった。幼いころから、ただぼんやりと「へえ、そうなのかぁ」とアホ面を下げながら鵜呑みにしていたものの、歳を重ねていくうちにそうでもなくなった。成長するうちに、人生の悩みは深く大きくなるばかりで何一つ解決しなかったので、疑問を抱く以前に、それらを一心に頼ること自体があまりなかったのだ。わたしが頼っていたのはタロットだとか誕生日大全だとかの占いだ。まあ、それはそれで問題ではあるのだが。

今思えば不思議である。母親についていって神社によく行ったのだけれど、たしかに木に囲まれているおかげで空気は新鮮で清々しさはあったとしても、神社は嫌いだった。なぜだか行きたくないのだ。しかも、母親は神社で長い時間拝んでいるのでそれも嫌だった。遊び盛りの子供だったからというのもあったかもしれない。

そして、もうひとつ母親の行為で嫌なことがあった。

それは毎朝、日の出とともに太陽に向かって「天津祝詞」を唱えることだった。

子供のときからずっとそれが嫌で、なぜ嫌なのか分からなかったが、おかげさまで朝日が嫌いになってしまった。朝日をみると、それだけであの嫌悪感が蘇り、母親への若干の罪悪感もあり、それらが一緒くたになって何ともいえない気持ちになったものだ。

母親の目には、その眩しく輝いている朝日が”そのもの“に見えていたのだろう。いつも、その朝日に感謝しながら「天津祝詞」を熱心に唱えていた。

だけどわたしには、その朝日が神には見えなかった。その朝日を見ても、何も感じない。感謝もない。だから自分はそういうタイプの人間なのだと思うようにしていた。

また、よくワールドメイトの支部に連れられた。そこに行くのは本当に気が進まなかった。気恥ずかしさがあったし、信者の人と話すこともないので交流したくないし、神棚に念仏を唱えたくなかったし、とにかく楽しいことはひとつもない。お菓子をたくさんくれるのが唯一嬉しいことだったけど(笑)、あとは何一つない。

行かなければ良い話だったけど、なにせ住んでるところはど田舎で、その支部はデパートとか食べるところがあるところだったので、そこに遊びに行くのが真の目的だった。

ちなみに全国にある支部はどこでも、めちゃくちゃ変テコな名前がつけられている。ユニークどころじゃない、アタオカだ…。(気になる人は調べてみてね)

少なからず信じていたことがアホくさくなる今日この頃である。

とにかく、わたしは祈祷を捧げることもあった。日常的には一切やらなかったけれど、過去に一定期間だけ祈祷させるような合宿のようなものに行ったことがあった。対象は、神を装った悪魔だ。それらが悪魔であることは歴史をみれば明白なことで、詳しくはraptblogの一般記事を参照してほしい。

そこで一瞬でも「愛」のようなものを感じたかといえば、決して無い。ひたすら力を込めただけで、神霊なものは感じなかった。もともと、弟は何度か霊を見るとかそういう体験はしているけど私自身は霊を見たことがないし、感覚は愚鈍な方ではあると自覚していたけれど、愛か愛でないかくらいは分かる。

その合宿は何十万円も払って、最終日には教祖も来るものだった。まだ小学生だったので記憶にはモヤがかかっているが、教祖はデタラメばかり言っていた。その当時はデタラメだとは分からなかったが今ならはっきりと分かる。あまりに下らないので詳しく話す価値もないけど、とりあえずはあらゆる偉人と自分の前世として話し、「いまこの会場には不動明王が屋根を突っ切って立っている」とか「ここにいる人の膝の上を龍が這っている」みたいなことを言っていたのを覚えている。

そんなものと比べるのもどうかと思うかもしれないけれど、カルト宗教もよく「愛」を謳うので、それに騙される人も多いのではないかと思う。

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わたしは周りに合わせ、埋もれながら生きていたけど、自分にもちゃんと個性があり、それを生かせることを知った。

それぞれの個性に応じた、神様の喜ばせ方が必ずあるのだと分かった。

自分の個性を探すこと、どうしたら神様を喜ばせることができるか、愛することができるか、それを探すこと自体が人生となり、楽しみとなる。それはいつしか大きな喜びになって、生きていることを感謝できるようになる。

正直なところ、わたしは生きていることに感謝したことなんて、今まで一度たりともなかった。でもこうして、生きていて良かったと思えている。だから本当に驚きだ。

ときには、思っている以上に辛いことも起きる。厳しさを感じることもある。でもそれを乗り越えられたとき、それが起こったことの意味を理解できたとき、今までよりもっと神様の心情を知り、考えを知ることができるからこそ、信仰が深まる。

一抹の不安だとか疑念が湧き出たとき、それらをそのままにしておくと日増しに肥大化していって、気づいたときには心に悪い芽が植え付けられていることがある。それはまるで、たんぽぽの綿毛ようにふわふわと頭の中を飛び、いざ地面に着地して芽を出したなら、どんどん育ち、深く根を張るようになって抜けにくくなるのと似ていた。

最近は、信じることの大事さを思い知らされる。信じることがとても大きい。

そして信じることの最大の根拠が、偉大な神様の愛だった。

根拠とはなりえないはずの愛が、だ。

ほんの砂粒の希望もない、ただ絶望と失望の砂漠が広がっているわたしの心に、神さまは希望を与えてくれて、生きる気力とやる気まで与えてくださった。

それは神様が、無から有を生み出すことができる、それをただ愛ゆえにやってのける唯一無二の存在であり天才だからなのだと分かった。

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興味があった方は、こちらを読んでみてください。RaptBlog





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