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ノルマ体質と形式主義が根強く染みついている、頭でっかちな人々。


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https://rapt-neo.com/?p=51849

今回の有料記事も、朝の祈り会で伝えた御言葉の元となった啓示の文章をいくつか掲載しています。
 
この御言葉を信じて従うようになった人は、どうしてこの御言葉を信じて従うようになったのでしょうか。
 
それは主が自分のことを心から愛して下さっていることを知ったからです。
 
では、どうしてその人は主が自分を愛して下さっていることを知ることができたのでしょうか。
 
それはこの御言葉を通して、それまで得たこともない深い悟りを得ることができたからです。
 
人というのは、主から深い悟りを与えられたときに、最も強く主の愛を感じることができます。
 
悟りを得た瞬間、その人の脳波と主の脳波が一つにつながり、主と直接、霊的につながることができるからです。
 
そして、主は愛の本体ですから、主とつながることができれば、誰でも必ず主の愛を深く感じることができますし、主の愛を常に深く感じて生きられるなら、もはやその人はこの世で最も幸福な生を生きられるようになったと言えます。
 
全知全能の神様から愛されて生きられることほど、祝福に満ちた生は他にないからです。
 
だからその人は、その後も自ずと主の愛を求めて、この御言葉に従順に従って生きるようになります。
 
そして、そのような人こそが真の義人だと言えるのです。

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頭で理解し、心で感じたからこそ、それらが合わさって「悟り」となる。

悟ことができるとはつまり、神様を理解することができたということ。

神様は人類に「理解してほしい」と強く願っている。
その願いを叶えたからこそ、神様の深い愛を受け取ることができる。

神様は「理解してほしい」と強く願っているからこそ、
神様を一部分でも理解できた人々に「伝道」してほしいと強く願っている。

そして、伝道した人々には、神様の愛と、そして大きな祝福が与えられる。

なぜ「理解してほしい」のか。

それは愛ゆえに、としか言いようがない。

しかし、一方で人々は神様を拒絶する人が大半だ。

でもそれでも、神様が人類と愛し愛される関係を築こうとするのは、
心の底では深く愛されることを願う人間の心を知っているからであり、人間のことを深く思って、深く愛しているからに他ならない。 

わたしは、御言葉があったから頭で理解することができ、神様の深い愛を心で感じたから、信じた。

そして、わたしはとても嬉しかったし、感動のなかにいたことを覚えている。

でも最近はそう感じることができていなかった。

祈って、神様の愛を感じた。でも、それなのにとても悲しかった。
愛があれば嬉しいはずなのに、切なく、悲しくなった。
それは数日続いていて、なぜ悲しいのか分からなかった。
確かに、信仰心に陰りがあった。わたしはそれを完全に拭えなかった。

きっと完全に信じていないからだ、そう思った。
だから何も考えず信じることにした。でもそれでも、悲しくなることには変わりなかった。

何がだめだったのか。
しかし、その理由が今日わかった。
わたしは悟っていなかった。悟りのなかで生きていなかった。

それはつまり神様を理解して、理解しようとして生きてはいなかった。

神様を理解できていないから、形式に陥ってしまっていたのだった。

わたしはどちらかといえば論理で動く人間で、なにかと考えすぎて、動けなくなる。

臆病になって、動けなくなってしまうことが多々ありすぎるし、すぐ傷ついて、すぐ心を閉ざしてしまうことがよくある。

そうするうちに、わたしは無意識のうちに心で感じることをやめてしまって、ノルマをこなすだけの頭でっかちの機械になり下がっていく。

むしろノルマをこなしていくことだけを考えて、達成感を得て生きていくことに安心を覚えて、それが体質化してしまう。

自分がこうなるとは思っていなかった。

最近、動画の仕事を請け負うことになったのだが、確かにやりがいを感じていたし、スキルアップしたいと向上心でいっぱいになった。

しかし、一方で視野がとても狭くなっていた。それにお金を稼がなければいけないから、その思いも強くなって、「仕事をしなければ。お金を稼がなければ。」という半ば強迫観念的な状態に陥った。

気付いたらわたしは、ただの機械のようになっていた。

そういう状態に陥った自覚もないまま、以前のような気持ちで神様を信じて生きることに疑問すら抱いてしまった。

わたしは目の前のことしか見えなくなってしまっていた。

そして、そういう人間はいとも容易く、自分の利益だけを追求して生きていくようになる。

「金のために生きて、生きるために働いて、何が悪い?」という具合に。

酷く頭も固いので、自分以外の世界観で生きる人間の気持ちがわからない。

ましてや「宗教にすがって生きる人間」など、初めから嫌煙して分かろうともしないし、ただ見下すだけだ。

なぜこうやって頭の固い人間の気持ちがわかるかというと、わたしはそっちのタイプの人間だからである。一言でいうと、性格が悪いのかもしれない。

でも、わたしには大事にしていることがあって、それは「自分の心の声」を大事にすることだ。苦しいことを、したくない。したくないことは、したくない。

ある意味では相当なワガママだけど、形式主義でノルマ体質はただ教育を受けて生きるだけで、根強く染み付いていく。

わたしは頭が固くて形式に陥りやすく、よく目的を見失う。理想も失う。希望もすぐ消えてどこかにいく。

それなのに、わたしが神様を信じて生きようと思えるのは、神様に出会ってからの人生に確かな喜びがあったからだった。それは、この世界にはないもので、この世のものでは感じることができなかった喜びだった。
意味があるものだと、頭で、心で理解した。

つまり、論理的に考えることをモットーに生きていたけど、直感も大事にして生きていたから、こうして自分の「至らない部分」に気付くことができた。

だからわたしは、頭でっかちな人にこそ伝えたい。

もっと自分の心の声を聞くべきだと。

辛いことには辛いといい、嬉しいことには嬉しいというべきだと。

そして、自分の知らない世界があることを、自分の至らなさを、認めるべきだと。

そうしてはじめて、無機質な世界から抜け出して、いつも側に愛のある人生を歩んでいくことができるのだと知ってほしい。

わたしたちはこの世界に生まれたら、なにがなんでも生きていかなきゃならない。

痛いのが辛くても、自殺は怖いし、そう簡単には死ねない。
“生きている”という理由だけで、一定年齢に達すれば搾取され続ける人生を送らなければならない。

その事実は、そう簡単に変えられるものではない。

だけど、形式でノルマをこなし忍耐しながら嫌々仕事をするのと、理想と愛でノルマをこなし忍耐しながらも嬉々として仕事をするのとでは、いったいどちらの方法で生きたいだろうか。


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