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ときめきを取り戻せ

あ、これはやばいかもしれない。と気付いたきっかけは、何気ない彼の言葉だった。

「あなたがワクワクする瞬間って何?」

食後にあたたかいお茶を飲みながら話していたときのことだ。いつもこの時間に2人でいろんなことを話すのだけれど、その延長線上で浮かんだ話がこれだった。

「…………なんだろうね?」


好きなものはわりと沢山あると思う。
本、映画、お笑い、陸上観戦、喫茶店、水族館、パン屋さん、雑貨屋さん、ポストカード集め、文を書くこと。仕事が好きだし、中国語の勉強だってちまちま続けているし、友人とご飯に行くのも、夫と散歩するのも、一人でどこかに行くのも好き。一人で家にいる時間も。
けれど、ワクワクする瞬間、と言われて何も浮かばなかった。最近わたしがワクワクした瞬間ってなんだ。

そんなわたしに対して彼はワクワクすることを見つけるのが上手だし、公私ともに環境が変わったことで刺激的な日々を送っている。家で映画を観るのが好きで、週末はよくサッカー観戦に行き、必要だと感じれば4月から転職した仕事のために勉強をする。いつも穏やかでご機嫌で、楽しそう。

そこではたと気付いたのだ。
最近わたし、感情がずっと凪である。


3月に婚約し、8月に結婚するまでプライベートが怒涛のスケジュールだった。なんなら結婚してからも名義変更に追われ、区役所と郵便局を行き来する休日ばかり。仕事は仕事で7月に担当フロアが変わったのでガラリと人間関係が変わった。患者さんと向き合うことこそ変わらねど、微妙に向き合う層は違うし、フロアのルールだって無い訳ではない。
だからこそ、意識して心を一定に保てるよう努めてきた。環境の変化に弱い自覚があったので、心身共にガタッと崩れてしまわぬよう、穏やかに穏やかに落ち着いて、と自分に言い聞かせてきた。

その結果、心が凪いだ。

思い返すといつからか、休日が来てもワクワクしなくなった。平日と同じ時間に目が覚めてもしたいことが浮かばないから、事前にやりたいこと/やらなくてはならないことのリストを携帯のメモに書き留めておくようになった。いつからか、空腹を感じなくなった。食べたいものが浮かばず、とは言っても食事を摂れば当たり前のように喉を通った。いつからか、やりたいこと食べたいもの欲しいものが消えた。

ニコニコと仕事はしているし、二人暮らしは穏やかだ。しばらく考えればKALDIの豪遊や友人ともホカンスが楽しかったと思い出せる。ベースとして気持ちが落ちていることは一切無い。けれど、落ちないように平均値まで気持ちを引き上げる術ばかり身につけていたら、平均値から気持ちを更に引き上げるものが分からなくなった。


「そんなに深刻に考えないでほしいんだけど、今の状況、ちょっと良くない方向に向いてる気がする」

「……わたしもそう思う」

彼がわたしのことを引き寄せる。
自分でも驚くほどすんなりと、涙が出た。
ああそうか、わたし辛かったのか。

明らかに落ちた自分の気持ちにやっと気が付いた。これは、自分自身でどうにかせねば。


🌻

ひとまず一旦、休日前夜に御守りみたく持っている安定剤を飲んで寝た。ちゃんと目が覚めたところで前の晩から考えていたとおり、愛しのロイホに出向……いたらなんと臨時休業だった。こんなところでめげてたまるか。

来た道を引き返し、普段なら行かないようなところまで自転車を漕いでミスドに行った。ストロベリーチュロと、エビグラタンパイ。パッと選択できたことや、今まで食べたことのないとのに手を伸ばせたことに安心した。それから持ってきたノートにやりたいこと、食べてみたいもの、浮かんだままにポツポツと書き綴る。……あ、出てくる。

そのまま自分が書いた「美術館に行きたい」の文字に引っ張られるかのように都内の展示一覧を調べ、国立西洋美術館のチケットを買い、上野に向かい始めるまでの所要時間、約30分。止まりかけた手を緩めず、ポンとオンラインでチケットの注文を済ませ、残りのカフェオレをぐいと飲んだ。「次のお休みに、」なんて思っていたら、変われない。

かつては修学旅行でバスに乗って連れて行かれないと行けなかった街に、乗り継ぎ案内を見ることもなくすんなりと辿り着いた。

これに行きたかったんです

うーん!良さが分からん!と思うものがあったり、かと思えばずっと立ち止まって眺めていたいようなものがあったり。好きな画家の、知らない絵に出会えるのは嬉しいし、ワクワクした。
ゴッホにしてはやけに明るい絵だな〜フーン刈り入れねえと思ったら「種まきを生の始まりとしたのに対し、刈り取りは人間の人生における終わりとして捉えた( 意訳 )」と説明が書いてあり、揺らがねえ〜〜!と思ったり、幾何学的な絵に対して「ナチス政権下において退廃芸術として押収された」と書いてある説明に、いやまあたしかに分かりにくいよね美しさ……でも綺麗よとても、と思ったり。


美術館を出る頃には、視界が明るくなったような気がした。その証拠に、夜ごはんの候補がポンポンと浮かぶ。和食が食べたいな。ブリと生姜で甘辛く照り焼きにしてもいいし、ひじきと鶏でつみれを作るのもいいな。彼は何が食べたいだろう。そんなふうに。

ここしばらくずっと忘れていた。
ささいなことに心が揺れること。ピンクのリボンが巻かれた帽子が似合う小さい女の子に微笑ましいと思う気持ちや、美術館で目の前を遮るようにして写真を撮っていたおじさんにムッとする気持ち。わたしは美術館が好きだったこと。行こうと思えばわたしは、どこにだって行けること。
わたしのワクワクすること、ときめきは、ここにあった。


食べたいものがすんなりと浮かんだ夜ごはんを、彼が何度も「おいしい」と言って食べてくれることが嬉しい。ご飯を食べながら「今日ね、」と今日過ごした1日のことを彼に話した。

もう大丈夫。ちゃんと生活は続く。


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