指導現場ではまぐれを期待してはだめなのか?

日々のトレーニングの中で、
思いがけない、とんでもないプレイをすることがある。

そんなシュート初めて見た!!
というほどにインパクトがあるプレイ。
誰しもそんな経験があるのではないだろうか。

人はそれを「まぐれだ」という。

「まぐれ」はなぜ起こるか?

言ってみれば極限状態において、
自分でも思ってもみない力を発揮するのが「まぐれ」だ。

しかし、まったく何もない状態からは「まぐれ」は生まれない。

体が勝手に動いた。
自分でもどうやったのかわからない。

というプレイだったとしても、
そのプレイができるだけの材料があって、
ポテンシャルが育まれていたということだ。

冷蔵庫にあるものを適当使って料理しているとして、
材料はあるものしかなく、
調味料は目分量で、
何を入れたのかもわからない。
だけれども、出来上がった料理は抜群においしい。

なんて経験はないだろうか。

もう一度作ってくれと言われても、
なにをどれだけ入れたのかわからないから、
全く同じものを作るのは難しい。。。

「まぐれ」というのはプレイにおいてもそんな感じである。

「まぐれ」はいつ起きるか?

「まぐれ」と言われるくらいだから、
その出現率や再現性は低い。
普段とは違う、異質というか、次元が違うプレイができた時、
「まぐれ」だと言う。

意図的にできるプレイは「まぐれ」ではないので、
意図しないプレイということになる。

意図できないほどに
没頭している。
集中している。
研ぎ澄まされている。

という情況下において発揮されるものだ。

「まぐれ」への期待感

しかし、材料がないことには調理はできない。
先の調理におけるたとえ話では、
少なくとも、冷蔵庫にその材料があったからこそ、
調理ができたわけだ。

プレイに関しても同じことが言えて、
そのプレイをするためのトレーニングをしているわけではない。
だけれども、その「まぐれ」のプレイに必要な
体力や身のこなしなどを無意識下で取り組んできたわけだ。
そうじゃないと「まぐれ」は起こらない。

指導者としたら、
その「まぐれ」を期待している部分がある。

選手自身も、指導する側本人も、
思いもよらないようなすっげープレイが出現するのを期待している。

「まぐれ」が起きるということは、
これまでの取り組みが肯定されるということでもある。
トレーニングには100%の正解はない。
100%信じることはできるけど、
100%正解かどうかは誰にもわからない
というのが持論だ。

暗中模索というか、
答えのない答えを探しながら取り組んでいく中で、
「まぐれ」というたった一回かもしれない
とんでもないプレイが起きることで、
これまでの自分のトレーニングはじめ、
取り組みが肯定されることになる。

選手としてこんなにうれしいことはない。
指導者としてこんなに成長を感じることはない。


「まぐれ」の出現率を高めていくこと

この「まぐれ」を体感したらやはり、
「もう一度」を期待してしまう。
その「もう一度」「あの時のプレイ」を求めていくのだが、
なかなかうまくはいかない。
だけれども、間違いなく「まぐれ」を起こす力はある。

あのときのあの感覚。
それを求めてトレーニングしていくことは、
「まぐれ」のプレイの出現率を高めていくということだ。

なぜそのプレイができたのか、
どうやったらそのプレイができるのか
映像を見たり、身体知としての感覚を言語化したり、
オノマトペを使ってイメージさせたりしながら、
「あの時の」感覚に近づけていく。

その習熟度が上がった時に、
「まぐれ」のプレイは「まぐれ」ではなくなる。


まとめ

指導現場では、「まぐれ」のプレイに対して否定的だと感じる。
指導者が「まぐれだ!!」とそのプレイを認めないこともある。
選手の取り組みや、指導者自身のアプローチが肯定されるプレイの出現にもかかわらず。

スポーツにおける正解は時代によっても、
情況によっても、局面によっても変わる。

その時の最適解が「まぐれ」だったとしても、
それが見られたことを素直に喜んで笑っていたい。

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