【8分で学ぶ】ゆとり世代が生まれた理由。「比較しない」という悪魔
「ゆとり世代」という言葉が、悪口のように使われているように思います。
ゆとり教育は失敗だったのでしょうか?だとしたら何が問題だったのでしょうか?
昔のいじめと今のいじめの違い、その原因、問題点。一緒に学んでみませんか?
今回の学びは【8分】。
『ゆとり世代が生まれた理由。「比較しない」という悪魔』というお話をしていきます。
①:ゆとり教育という「比べない」世界の入り口
ひと昔前になるかもしれませんが、「ゆとり教育」というものが生まれてきた時代の話をします。「何をいまさら」と言われるかもしれませんが。
もともと学校の教室には「教壇」といわれる、1段高い場所がありました。先生がその教壇に立ち、黒板などを使って授業をしておりました。後ろの生徒にも見やすいようにという工夫から始まったものだと思われます。
ところが、ゆとり教育の始まり時期にそれがなくなりました。一部、まだ残っているようですが。その理由は「先生が高いところからしゃべるから子供が萎縮する。上から目線はやめるべき」という風潮によるものでした。
これを皮切りに、さまざまな変化が起きました。
運動会では、1位や2位、3位というような順位をつけるのはよくないことだという風潮になり、「よくがんばりました」というメダルを全員が貰うようになりました。
テストでは、「この問いに答えよ」という言葉が、命令口調なのでよくないことだということになり、「この問題に答えてみましょう」という言葉に書き換えられました。
一見バカげていると思うような、こんな変化がさまざまな場面でおきてくるようになり、「周りの人間と比べてはいけません。自由に育ちましょう」という流れができてきました。みんな平等なんだという考え方だったのです。
そして、そんな社会構造の中から「ゆとり世代」という人たちが生み出されました。現在になり、これは失敗だったというような論調にすらなっています。
実際にこの時代を生きてきた子供たちにとって見ると、迷惑でしかありません。その教育の中で一生懸命に生きてきた子供たちに向かって「失敗」なんてことを平気で言うんですから。ありえないですよね。
そんな世の中の流れにより、競争することはよくないことだとか、比較するということはよくないことだという風潮が出来上がってきました。それを平等と呼ぶのだそうです。
②:比べないと世界はどうなるのか
さて、本題はここからです。
「比べる」ということは、本当に良くないことなのでしょうか。すこし誇張した例をいくつか挙げてみます。
例えば兄弟がいたとしましょう。一人は中学生になったばかりで、一人は小学生になったばかり。お兄ちゃんには、中学生になったんだからということで、お小遣いを1000円毎月あげることにしました。
比べてはいけない世界なのですから、もちろん年齢による比較もよくありません。であれば小学生の弟にも、きちんと同じ額のお小遣いをあげるべきですよね。フラットな社会なのですから。
例えば先生に向かってタメ口を利いた生徒がいたとします。一切の敬語を使わずに、友達と全く同じように。
でも比べてはいけない世界なのですから、それはまったく問題ありません。友達と先生を比較するなんてやってはいけないことなのですから。自分より目上だとか、そんなことは関係ありません。
もし先生は別だということになったとすると、じゃあなんで友達はいいんだとか、年上の友達はどうなんだとか、そういう屁理屈をいくらでも言えちゃいますよね。
この2つの例から考えてみるに、比べることがタブーになってくると何が起きるのでしょうか。
それは「自分のポジションがわからなくなる」のです。
何が上手にできて、何がへたくそで、何が良くて、何が悪いことなのか。その判断基準が全て「自分」ということになってしまうのです。だって、比較できないのですから。自分で思ったことをやるしかない。当たり前のことです。
足が早い人がいて、足が遅い人がいる。「自分と他人とは違うんだ」という、本当に当たり前ことがわからなくなるということになってしまいます。
そして錯覚を起こし始めます。
「自分がやっていることは、他人にもわかるはずだ」
「どうしてわかってくれないんだ」
比較をしない世界だと「自分のことは、他人がわかっているはず」だと思いこみ、なのに「他人は、自分ではない」ということだけはわかっている矛盾状態に陥ります。そして他人との摩擦がおき始めます。
③:昔のいじめと今のいじめの決定的な違い**
その摩擦はどちらに向かうかというと。
「わかってくれないやつは、仲間はずれにしてしまえ」ということになるか、「じゃあわかってくれないやつらとの関わりとを断ち切ってしまえ」という方向に進むのです。
これで、「いじめ」と「引きこもり」の完成です。
そうじゃなければ、わからないのにわかった振りをする。いわゆる「同調圧力」というやつであり「空気を読め」です。
みんなもこう思ってるよな!な!というやつです。
ここで生まれたいじめは、過去の「競争社会」から生まれたいじめではなく、「平等な社会」から生まれたいじめです。これは、あきらかに似て非なるもの。
競争社会から生まれたいじめは、単純明快に力の関係の上に成り立っていました。弱肉強食というわかりやすい構図で、明白な力関係を作り「暴力」というやり方で従わせる。そういういじめです。
これに対して、平等社会から生まれたいじめは違います。自分の方が強い、というような考え方ではなく、「自分と違う」ということに対して攻撃を仕掛けます。
そこには明らかな力の差はありません。なので、同じ考えと思われるもの同士で仲間を作り「回り全員は俺と同じ考え方なのに、あいつだけ違う」という”孤立させる”というやり方をとります。
表面上にイジメなどがわかるはずもなく、ひたすら水面下で精神的に追い詰めていくというやり方をしていくのです。だから陰湿だと映り、首謀者のわからないものになるのです。
そんなときに、ツイッターやLINEというような「SNS」という名のツールを渡されました。そしてその平等社会でのいじめは加速していきます。首謀者がわからないため、回りの全員が敵に見えてくるという感覚に陥ります。
それはいつも「自分たちが正解で、あいつだけが違う。だから、はずされて当然」という大義名分の下、執行されるのです。もちろんそれが嫌ですから、みんなこう思うのです。
『自分はターゲットにならないようにしよう』
そして空気を読み、結果として「横一線」の社会が形成されるというわけです。
④:ゆとり教育が目指したものと、現実との違い
ゆとり教育というものが目指した形は、そんなものだったのでしょうか?
違いますよね。横一線の教育をやめて、みんなが自由な発想で考え認め合い、より何かに秀でた人を育てようという趣旨で始まったもののはずです。
なのにやり方を間違えてしまった結果、そこから生まれたものは「自分たちと違う人たちをおとしめる、という発想」だったのです。
何が言いたいかというと、「比べない」という考え方は、自分の立ち位置がわからなくなるという不安を生み、結果として横一線を築いてしまう考え方なのだということです。それに気づいないこと自体がまずいと思うのです。
僕は、ゆとりというのは非常に良くない考え方だと思っています。競争や、比較という考えこそが、自分が何を得意としていて、何が劣っているのかを理解できるシステムだと思っています。そして自分のポジションを見極めて、共通の分野や考え方をもつ仲間を形成していくべきだと思います。
「自分と他人とは別なのだ」ということを明確にできるからこそ、認め合うということ学んでいけると思っています。
まして、その後に訪れる労働社会は、確実な「競争社会」です。談合を法律で禁じているわけですから、競争こそが美徳とされている社会に他ならないのです。なのになぜ、学校教育は「ゆとり」にしたのかが、まったく理解できません。
⑤:みなさん、どんどん比べていきましょう!
自由な発想を持ちなさいとか、自分で学びなさいとか、がんばるとか、がんばらないとか。当然個人差があるとは思います。ですがそもそも、その考え方の基礎となるものがあってこそそれが成り立つと思うんです。
例えば、言葉をしゃべることができるから友達ができるわけで、しゃべれない人に対して「さあ自由に友達を作りなさい」といったところで、それは厳しいですよね。
例えば「足し算引き算が、わからない」ということを個性ととらえ、それを尊重してそのまま社会に送り出すことを、正解だとはいえません。
これらは極端な例かもしれませんが、でも大きな意味で同じことだと思います。少なくとも、それを理解していない大人たちが、机上の空論だけで組み立てた理屈は、通用しなかったわけです。
そして何より、それを「失敗」といってのける、その神経が腹立たしくてしょうがないのです。
比べることは良くないことなのか?という話に戻ります。
結論、比較をしないということは、みんな横一線でおんなじなんだよという安心感を与えるためのシステムです。それは、みんなが同じ立ち位置にいるという思い込みを生む、あまりよくない状態だと考えます。そして、そんな仕組みの下では、個性なんて育ちません。
◇お兄ちゃんなんだからしっかりしなさい。
◇先生のいうことをちゃんと聞きなさい。
これらの短い文章の中は、比較というもので出来上がっています。相手がどういう人間で、どういう立場にいるのかを知ることができ、結果として自分がどういう人間なのか、何が得意なのかを知ることのできる重要な情報の一つになると思います。
自分は自分です。他人ではありません。私以外私じゃないんです。そんな当たり前なことに気付くことができるのが「比べる」ということです。
自分と相手を比較して、足りないものを探すのは成長につながります。比べてよくないことならマネしなければよいのです。
みなさん、大いに比べていきましょう。そして真似していきましょう。またはそうならないようにしましょう。
比較こそが自分を際立たせて、成功に導く最短ルートとなるのは、間違いありません。
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