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講演【老と死を考える】1

次はこれです。「老と死」の話です。

講演【老と死を考える】1

皆さん、こんにちは。ご紹介に預かりました近藤で御座います。宜しく。
この会に何回ぐらい来たのか忘れるくらいお呼び頂いておりますので、改めて感じるというよりも、非常に親しい感じがして、又懐かしい感じがして、楽しい私の年中行事の一つになっているのですが、そんな事を云っております内に、私自身この9月27日で満75歳になるのです。そうしますと、大変に年寄りなのですね。拝見しますと、私と同年の方とか、私より上の方とかは少ないような感じが致します。
そういう意味で、今日の与えられました演題はいうならば、人生のエピローグと云いますか、最後の時間についてお話しする事になったのだと思いますが、これは又改めて、自分の年齢を考え、やがて来る自分の死を寿命が幾ばくもあるかないか、そういう事が問題だと思います。

苦楽は主観による
 人間が玩是ない赤ん坊として、母親の胎内に宿り、生まれ色々な環境の中で生きる、その生きる事は、必ずしも楽しくはない。苦しみ、嘆き、その中での失望や落胆、愛情を欲しがって飢えたり、切望したり、挫折したり色々な事をやって来るものです。
 こうやって70数年かえってみますと、自分の少年、思春期時代にかけて果たして自分は正気であったかどうだったか、甚だおかしいと思う。正気であるかどうかも誰が保証してくれるかどうか解りませんけれど、しかし少なくともその頃は、もう本当にどうして良いか解らないような精神的苦しみに悩んで絶望し、自分は今みたいに精神医学が発達していたら、恐らく気違いだと云われたでしょうね。人を気違いだという事くらい楽な事はないのでありまして、人と一寸違っていれば全部気違いです。そのくらい楽な診断はないのですが、気が違うのは、理由があって気が違うのです。
 例えば昨日の新聞だと思いますが、旦那さんが彼女を作ったという事で、ガソリンを全部かけちゃって、全部死んじゃったんですね。この瞬間的状況というのは、一時的狂気ですね。気が違わなくては出来ないです。
 ですから生きるという事は、狂気に近くいつもくっ付きながら生きていると云っても良いと思います。それと同時に生きるというのは何かと考えますと、苦しみと楽しみとどちらが多いかと、よく私たちは云いますが、私たちのものの考え方というのは、大体自分にとって都合が良いか、悪いかという事が括弧の中に括ってあるんですよ。自分にとって都合の良い事は楽しいし、悪い事は苦しいのです。例えば試験を受けるのでも、良く出来る人には楽だし、楽しいし、出来ない人には大変苦しい訳です。
 苦楽という事もありますが、如何に我々が相対的で、主観的でそれがいい加減な事か、このくらい年を取って来ますとよく解ります。
 若い時は、素晴らしい事だと思い込んで追求して行く、それに情熱を傾けてやって行く、その情熱が何年か経つと幻想であったという事を発見する事があります。誠にこの時はガッカリしてしまうのです。そういう風なものを考えますと、生きるという事は、オギャーッと泣いてズーッと生きている訳ですが、どうでしょう。若い方や中年の方も居られますが、人生は楽しいんでしょうかね、苦しいんでしょうか。いずれにしても私たちは、良いにつけ、悪いにつけ、煩い悩み、苦しみ色んな事に執着する事が多いのです。
 この時代で、一体どういう事が素晴らしいのか、そういう事など大学を卒業して、就職する人などに聞きますと、成功したいと云うのです。簡単に云えば、良い会社に入ってドンドン仕事をして、出世してそこで良い奥さんを貰って、収入も沢山あって、立派な邸を作り、そして社長になって国から勲章でも貰ったらもっと良いでしょうね。それを貰って、春か秋の天皇陛下の宴に招待して頂いて行けば、それで全部大成功で、自分は一生成功したと考えるでしょう。
 文化勲章を貰う人も居ますよ。けれども私はある文化勲章を貰っている人を知っていますが、その人の奥様は「あんな文化勲章を貰った人は、私はちっとも尊敬出来ないんですよ。世の中って変ですね。ああいう人が尊敬されるんですから、呆れてしまいますよ。私はちっとも立派な男性とは思いませんね。結婚生活はこんな惨めな事はない。私は出来れば違う人と結婚したい」、こういう風に考えているんですよ。「年を取って止むを得ないからこうして居るけれど、勲章なんて何でしょう。弟子たちが何百人、そんな事って何でしょう。そういう事って本当につまらないもんですよね」、まだまだありますよ。私の所に来るのは、そういう正直な人がいらっしゃるので、正直な話が聞けるから良いです。
 こういう話は、私どもでは、臨床と云いまして、実際に問題を抱えた方にお目にかかっていなければ解らないんですけれどね。
 ある有名な社長です。非常に成功しましてね、ところがその人が50幾つでしょうか、その人が夜寝る時に寝付きが悪い。寝付きが悪くて仕方が無いから、一杯飲んで寝ます。その次に夜又目が醒める、それで又呑んで寝る。そういう事を一時間毎繰り返して、5時半頃に目が醒めて寝られない。そうすると何か淋しくて仕方が無い。孤独感がしみじみ来るんですね、もう足がガタガタするような、寝てはいられないような気がするんだそうです。とにかく不安でたまらない。実際にはお金もありますし、五夫婦仲もいいし、お子さんもちゃんとしているし、良いんですけれどそういう事が起きるんです。そんな事ないわよと云われるかも知れないけれど、実際にはあるんです。

「老」への不安は誰もある
 それから又、年の若い青年実業家、社長ですね。「20兆円位の金だったらすぐ用意出来ますよ」、とそういう方です。その方が、やはり金で買えない事があるんですね。「先生、年を取る事は止むを得ない事なんですかねえ」。
 今、元気で女の人にも大変モテて、5人も6人もそこいらのキャバレーかバーか知りませんけれど、そういう所で、プレーボーイとしているんですよ。男性って妙なもので、女の人にモテると凄く自信があるんですよ。だから男の人に自信を持たせようと思ったら、大いに女の人が一寸腕に依りかけたら、随分違うかと思いますよ。数が多いという事で、随分自信もあるんですよ。
 ところがその人はやはり不安があるんですよ。「先生、このまま若さが続いて行く訳には行きませんかね。年を取るという事はどういう事なのでしょうね。年を取ると思うと、ゾッとしてしまうんです。だから出来るだけ忘れるようにしている。忘れて生きて行こうと思っている。仕事を一生懸命にやっている時は忘れているから良いけれど、それが終わってしまうとつまらなくなってしまうんです」と。
 社長さんですから、ある程度の決済をやってしまうとやる事がない。やる事がないと、今晩どうしようという事になると、その晩が不安だから、そこで電話をかけて、AならAという女の人のところに電話をかける。ダメだったらBの所にかける。OK、そうしたらそこに行く。そういう調子で暮らしている訳です。
 こんな変な話は、私たちとは随分違うと思うかも知れないけれど、今の現代の人の中にある一番大事なものは何かと云うと、お金だと思うのです。お金は沢山欲しいですよ。ダイヤモンドも買えるし、良いコートも買えるしね。素晴らしいんですよ。バーゲンで買わなくても良いの。それだけれども、そういうものを一生懸命やって、もっとお金があったら良いなあと、どこかで考えているんですよ。「いいえ、私はそんな事知りません」と云うけれど、人間は兎角そうしたものが、ムラムラと出て来るというのが偽らない事だと思うんですよ。
 男であれば出世したい、社長になりたい、思うままになりたい、仕事を成功させたい、もういうもんですよ。そんな事で一杯になっている。しかしそれを全部完成している人が居るんですよ。完成している人が居るのに、その人に現代で云うならば、本当に満足し、欲望の点においては充分に満足しているそういう人が、不安になるという事が、人間の又別の真実なのであります。
 そういう事が驚くばかり、繁栄する日本の中で起きているのです。子供たちにしても、色々な物を買って貰って、玩具にしろ、パソコンにしろ、買って喜んで、又買ってやるような家庭が多いのですよ。にも拘らずそれに夢中になっているけれど、後に何か少年らしい生き生きとした喜び、活力というものがない。
 日本はナンバーワンだという本を出した人が居るけれど、私はそこにある問題が深いものであるという事を、どうしても語らざるを得ないのです。私も目出度い目出度いと云いたいところですけれど、そんな風にはならないのです。
 今の若い社長が云った、老いたくない、若くいたい、これはある意味でみんなの気持ちだと思うのです。つまり老を嫌う、老という事は、年を取る事を嫌悪する。
 これは女の方に一番よく解るのですが、「あ、お若いですね」と云われる事が非常に嬉しいんですね。「いいえ、私はもう年なんですよ」と謙遜していらっしゃるけれど、若いですねと云われると嬉しいんでしょう?それが正直な気持ちだと思いますよ。1日でも自分の若さを止めておきたい。こういうような事があると思います。
 私の家の近くに駒沢公園というのがありまして、そこへ行きますと年寄りが一生懸命ジョギングをしているのです。あれは何故ジョギングをやるのだろうかとお考えになった事がありますか。あれは若さを保つ為、長生きをしたい為、出来るだけ死なないで、病気にならないで、その為にやっているのですよ。やっている内にバッタリと倒れて死ぬ人も居るのですけれどもね。
 人間の物質の欲望が次第に満たされて来ると、私たちの心の中に、いつまでも若くいたい、いつまでも生きていたい、老という事を嫌い、死という事を免れたいという気持ちがあるのですね。そういう気持ちを持ちながら、皮肉な事に、色々とお化粧をしたり、色んな事をするんだけれど、初めは白粉の暑さでシワを隠す事が出来ていても、ちりめんジワが段々と大きなシワになって来て抑えられなくなってしまう。そうして頭には白髪が段々増えて来る。そしてそれを染める。美容院を出ると何となく自分が若くなったようで、晴れやかな気持ちになる。熱海の温泉などに行くより安いかも知れませんね。しかし所詮、こういう事は破れざるを得ないですね。私は化粧や美容院を否定している訳ではないんですよ。どうぞご婦人方は美しく飾って下さい。
 しかしたった一つ、それは決して年を取る事を止める事は出来ないという事です。これだけは事実です。如何に装えども、年を取る事を止める事は出来ない。それは生理的な意味である事も云っておきます。生理的に60歳、70歳になってくれば仕方が無い事です。
 次に老と死の間に病というのが入ります。実はこの病が心配で、健康法を色々とやるのです。「老病死」と三つの事を考えていた方が良いと思います。
 私たちは年を取る事は嫌です。病気になる事は辛い事です。そして病気が治らないで死ぬ事は本当に嫌です。まだ20代、30代の初め頃は、老病死という事はあまり考えないです。若い方は先の事だと思うんです。それで良いと思うのですけれど、現実に私のように75歳になる人間が立っている事、老人が居るという事を覚えておいて下さいね。必ず年を取ります。よく若い人が「おじん・おばん」とか云いますね。あなた方の息子さんや娘さんが仰るかも知れないけれど、あなた方は怒らなくて良いのです。そう云っている人もみんな、「おじん・おばん」になり、やがて自分の息子や娘から「おじん・おばん」と云われるようになるのです。これは人間が発生し、人類が発生し、生物が発生して以来断じて動かす事の出来ない確実な事実です。私たちはそこから考えを始めて行かないと困ると思うのです。

人間とは「死するもの」である
 実はこの2月に、私の中学からの親友であった三井系の会社の会長までやった男ですが、それを癌で亡くしました。毎月毎月、霞ヶ関会館と云って、霞ヶ関ビルの一番上の方で、高さも高いけど、値段も高い所です。そこでいつも話をする事になっているのです。何故仲が良かったかというと、結局その人間は仕事を一生懸命やりながら、常に人間というものを考えていた人間なのです。単なる仕事人間じゃなくて、人間が生まれ、生きて色々な苦しみ、煩悩を持って年を取り、病気になって死ぬという事を考えている。そういう事についてお互いに話をするという事が楽しみだったのです。
 何故そういう事をしたかと云いますと、自分の現在の没入している仕事から、フッと頭を上げて考える時に、私たちは人間とは何かといったら「死するものである」と感じざるを得ないと思うのです。こういう事に本当に着目するという事が大事だと思うのです。そうしますと初めて「生きる」という事は「死する」までの間の事であるという事だと思うのです。次に考える事は、死ぬまでに、一回きりしかない人生で何をしなくてはならないだろうかという事を考えざるを得ないと思うのです。何をなさいますか?そこに充実させるか、させないかという事が一つあります。
 私の友人は念仏と申しますか、仏教に心を傾けまして、念仏を唱える、そういう事を心がけ、又そういう事を中心に私と話す事が楽しみだったのです。ところがその人は食道癌になりまして、彼が最初に云った事は「俺は食道癌になったらしい。だから癌になったら、色々な治療を受けない。これが自分の寿命なんだから、これでそのまま死んで行きたいと思う」と。私は医者ですけれど賛成したんですよ。「そういう気持ちだったら良いね、そのまま往ったらどうだい」と。ところが他の友達は「近藤、お前は医者のくせに何故そんな事を云うんだ。出来るだけ助けるという事に尽力して、最後まで希望を捨てないでやるのが医者の務めではないか」と。それでどうしてもガンセンターに入れろという訳です。
 がんセンターに入れました。ところが有難い事に手術が成功しまして良くなったんですよ。それですっかり良くなって「近藤、手術が成功したよ」と楽しんだ。僕も「良かったなあ、手術して良かったじゃないか。そういう事もあるんだな」と云ったんですが、暫くして電話がかかって来たんですよ。か細い声で「また、入院だよ」という訳です。「どうしたんだ。そんな元気のない声を出して」「転移したんだ」と。それで私が見舞いに行きました。その時にこう云われました。「何故入院したんだ」「再発した時の苦しさといったらたまらないんだ。最初手術した時は念仏が云えた。今度苦しい時には、たまらなくて念仏なんか出ないんだから一声の念仏と云うけれど、念仏すら出ない痛さというのは、平生念仏という事を云っていたけれど、これはどうにもならないのではないか」と云うのです。僕は「その痛い、苦しい、たまらない、どうにかしてくれというのが、本当に仏様への人間の念仏なんだ。考える事はない。それが本当の念仏だろう。苦しい時に苦しいと云える事。それを心から云える事。そういう事が念仏だから、南無阿弥陀仏という事だけが念仏ではないと思う。苦しい時には喚け!泣け!そうやって初めて、本当の自分の気持ちというものが仏に通じるのだ」という事を云いました。(つづく)

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