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「ノイローゼ」14

「ノイローゼ」14
・・・そして、人に嫌われないように人に好かれるようにするのです。「義理だから・・」というのも、同じ心理が動いている訳です。
義理というのは、元々道理とか人の踏み行うべき道という意味だったようですが、次第に、世間体を気にして形式的にする事を意味するようになり、殆ど付き合いと同じ意味になったという事です。
ですから、「義理だから」というのは、世間の付き合い上やむを得ないで、本当の気持ちは兎も角、形式的にするという事です。形式に従わないと人からトヤカク云われ、人に悪く思われるという危険がある訳です。その為に、形式的に付き合い人に嫌われず好かれるようにする事になります。
このように、私たちが常識的に使っている「付き合いだから」とか、「義理だから」という言葉の裏には人に嫌われないように人に好かれるようにするという気持ちがある訳です。
ご機嫌伺い
更に、注意してみると次のような事にも気がつきます。
よく会社などで「今日、課長のご機嫌はどうだい」「余り良くないぜ」などという会話を聞きます。
機嫌というのは、気分とか感情とかいう意味を持っています。ですから、この場合課長の感情を気にしている訳です。
挨拶の言葉は、どこの会社でも大体決まった表現を取っています。ある辞書を見ますと、英語の「ハウ・アー・ユー」が、「ご機嫌いかがですか」と訳してありました。英語の方は、あなたの状態―健康状態はどうですかという意味で、相手の健康をポイントに置いていますが、日本語の場合は、相手の感情を気にしている事が解ります。これが発展してご機嫌伺いをするという事になります。そしてそれを余りやるとご機嫌とりとか機嫌買いとか八方美人とか云われます。
全て相手が自分に良い感情を持つように、或いは悪い感情を持たないようにする為です。
そして、感情は表現に出ますから、何か云う前に所謂「相手の顔色を伺う」という態度が生まれます。私たちの日常生活が自然と云えるほど無意識にこんな風な態度を取っているのに気付かれるでしょう。
他人の目
またこのように他人の感情を気にする事は、自分がどう他人に思われるのか、見られるかという事が重要な事になり、その結果が所謂「人目を気にする」という事になる訳です。
しかし、それよりももっと重要な結果は自分というものが、他人がどう思うか、或いは他人にどう見えるかで決められて来るという事です。
つまり、他人の目に映った自分の姿が、自分であるという考え方になる事です。この考え方に立ちますと、他人に良く思われない自分は、駄目な価値の無い人間であり、良く思われれば立派な価値のある人間であると思う事になります。こうなると、自分の価値は他人の評価に依存し、それによって左右される事になります。
人間にとって自分というものは、大切なものです。その大切なものが自分以外の他人の評価に依存し、それによって浮き沈みするという事は、全く不安定で不安なものです。しかし、こうした考え方に立てば、不安を防ぐには、それ以外の方法は無いのですから、益々他人に好かれ嫌われまいとする訳です。
この点で興味あるのは、この態度が我が国の他国に対する態度にも共通していると思える事です。
我が国の外交―他国との付き合いーは、等距離外交と呼ばれています。大変もっともな呼び方ですが、事実は、他国の評価を気にして、どの国にも好かれたいという八方美人的なご機嫌を取り結ぶやり方ではないでしょうか。
これは勿論色々な現実的理由もある事ですが、見方によれば依存的態度の反映とも考えられます。
抑圧された自己表現
私たちの社会では、PTAの会議から株式総会や学会に至るまで、一般に参加者の自発的な発言が少ない傾向があります。少数の人が一方的に喋って他の人は傍聴している事が多いようです。
これも色々理由がある事ですが、だいたい喋らないほうが無難だという気持ちが動いている事が見受けられます。下手に喋って他人の気持ちを害したり不快がられたりすれば結局嫌われ好かれないで、自分が損するだけだという自己保全の考え方が強く働いている訳です。
この事は、一面から見れば自分を表現したり主張したりする傾向を妨げ、少なくする事になります。その結果、自己表現が下手で自己主張の仕方が進歩せず洗練されませんから、どうしても表現したり主張したりしなければならぬ局面に追い込まれると、極めて感情的な原始的な表現や主張にならざるを得ません。
その為に、決定的な感情的対立やしこりが生まれ問題の解決どころか却ってしこりが残って争いが長引くという結果になりがちです。
そこまで酷くなくとも、日常生活で自己表現や自己主張が抑圧されていますから、表面はスムーズですが、内に籠もった陰湿な形で出て来ます。例えば転写に乗る時に素知らぬ顔をしながらやたらに他人を押し除けたり足を踏みつけたりするのは、乗客の数に比べて輸送量が少ないという事情もありますが、こうした抑圧された自己主張の変形された表現の一つであるとも見られます。
また、車を運転すればちょっとした隙があると割り込んだり無理矢理に追い越したり、クラクションをやたらに鳴らしたりするドライバーの態度にも出ていると思います。ところがこんな恐るべき運転をする人が、一度車の外に出ると日常生活では他人に対して気を使う紳士であるのには驚く時があります。
つまり、こんな人の日常生活の紳士的な態度の下には抑圧された自己主張があり、機会を得ると過度に歪んだ形でそれを表現するのでしょう。
配慮的文化
こうしてみますと、私たちを取り巻くその中で私たちが生活している我が国の社会文化の特徴の一つが明らかになって来ると思います。
それは、お互いに良く思われたい、せめて良く思われなくても嫌われたくないという事が、自分の安全の為に必要だというので、他人の感情や顔色ばかりを気にして自己表現を抑圧し、他人の評価によって自分の価値を決める依存的な傾向を持っている文化であるという事です。
その原因は、或いは農耕文化の共同体的生活によるとか、多年に渡る封建制の身分制度によるとか、または立ての文化であるとか、日本人の幼児期の口唇的甘えによるとか、その他住居のあり方とか、色々な説明がされています。恐らくはその全てがこうした傾向を形成する原因になっているのでしょう。
要するに、私たちの国の文化は、他人の目を気にし自分に対する他人の感情に気を配る配慮的な依存的な特徴を持っている文化です。
こうした文化の特徴は、お互いがお互いの感情を傷付けないように配慮し合い協力するという点で、貧しい国土で海に囲まれた狭い限定された状況にすまなくてはならない我が国では、確かに人間関係を円滑にしお互いの生活を安全に保つ事に役立つものです。
その意味で、私たちの文化は、安全を主としている文化であると云えるでしょう。そして、その方法として依存的態度を取っているのです。
配慮的文化の影響
一般人の場合、こうした文化を背景として考えると、Aさんが親から云われた「人に好かれなくてはいけない」「人に嫌われては駄目だ」という事は、真に当たり前の常識的な事であり、Aさんの親は我が国の文化の特徴の一つをAさんに伝えている事になります。
私たちも、人に好かれる事は楽しく人に嫌われる事は嫌です。私たちの文化がお互いに相手の感情を傷付けないように気遣い配慮する思いやる様式を持っている為に、お互いの生活を快適にする事が出来て恵まれている事は確かです。そして、お互いにそうした相手の配慮を信じ、お互いに頼り合う相互依存の生活様式によって生活するのも安全感という点で、喜ぶべき事です。
私たちもその文化の中で人に好かれ人に嫌われない良い子になるように一応親から云われて、育つものです。その点、AさんやAさんの型の依存的方法を取る人と変わりはありません。
だが、ちょっと違うのは私たちは、Aさんのように必ずしもいつも良い子にならないという事です。私たちは、自分の中から知らぬ間に出て来る自分らしい感情を表現し主張する事を自然にしています。そして、周りもそれをある程度認め、許してくれるものです。そして場合によっては、好かれなくても怒られても、敢えて自分の考えや感情を出すものです。
神経症的性格に対して
ところが、Aさんたち依存型の人は、何がなんでも人に好かれ嫌われない良い子になろうとするのです。これは、前に述べたように親や周りの人の態度から自分が見捨てられ無力であると感じて不安になります。またそうされた事でその人たちに敵意を持つのですが、自分の安全の為にはその敵意を抑圧し抑圧された敵意は周りの人に投影されて、周りの人が自分に敵意を持っていると感じ更に大きな不安に襲われているのです。こうした悪循環で不安が酷くなりますから、何が何でも不安から逃れようとする方法にしがみ付きます。何が何でもという態度を「強迫的」と云いますが、Aさんのような人は強迫的に人に好かれ嫌われない人になろうとする訳です。
つまり普通の人の好かれたら良い、嫌われないようでありたいという気持ちは、謂わば願望であり希望ですが、Aさんたちの場合は、どんな事があっても好かれなくてはならない、嫌われてはいけない、という事が謂わば絶対命令になって来る訳です。
言い換えれば、Aさんのような人は、普通と比べると過度に強迫的に依存的方法に頼り、しがみ付いているのです。
依存的方法は、私たちの文化の与える安全の為の方法ですが、これが強迫的に過度にどんな場合でも無差別的に取られると、先に述べたような色々な困難が症状として当然現れて来ます。
大体、方法というものは、ここの現実の状況に応じ、それに適したものでなければ、その目的を果たす事が出来ないものです。ですから、Aさんのようにどんな時でもどんな場合でもどんな人にも無差別に強迫的に同じ方法を取る事は、現実的でなく、観念的で、当然、実効が無い事は明らかです。しかし、これが正に「神経症的」と呼ばれる態度なのです。
依存的態度の合理化
しかしこの依存的方法や態度は、私たちの文化では一応許され認められるものですから、Aさんたちのように、それを強迫的に行っている場合でもごく当たり前だと感じて、その事自体別に「神経症的」と思われないのです。
現にAさんは、「他人に好かれ嫌われないようにしなければ世の中では生きて行かれないと思います。誰でもそうでしょう。ですから、どうしても人に好かれるようにしなくてはならないのです」と云っています。
一応その通りと云わなくてはなりませんが、それだけにAさんは、自分がどんなにそれを課題に考え、強迫的な態度で追求しているかに気が付く事が出来ません。
つまり、私たちの文化が依存的な配慮的な性格を持っている為に、Aさんたちのような神経症的な依存的方法をも、当たり前と考えさせ、むしろ増殖するのに役立っている事になります。
このように神経症的な行動をあたかも理の通った当然のやり方であると考え、そのやり方を続けて行く事―言い換えれば、神経症的な態度を如何にも合理的であるかのように考えて防衛する事を、「合理化」と呼びます。
この意味で、私たちの文化の依存的特徴は、Aさんたちのような神経症的な依存的態度を合理化するのにも役立つものです。これは大変な危険な事です。
何故なら、Aさんたちは今まで指摘したように失敗するに決まっている神経症的な依存的態度を当たり前と思い込み、更に合理化する事でその思い込みを強め、闇雲にやり続ける事になるからです。
その結果は、失敗して不安に苦しむのですが、自分の思い込みに取り憑かれているAさんたちは、その思い込みや合理化の虚偽に何の疑問も持ちませんから、また同じ事をして失敗して症状に苦しむという神経症独特の悪循環を繰り返すのです。
配慮的文化の危険
確かに、私たちの国の文化は、先に述べたような特徴を持っているので、安全な生活という点では、真に住み良く生きやすい良さがあります。
しかしその一面、お互いが相手の感情に気を使い遠慮し気兼ねをしてお互いに相手の気分を害しないように努力する結果、共すれば自分の自然な感情や考え方を抑圧し、その場を取り繕う方向に行きがちです。抑圧する結果、前に述べたように歪んだ過度な不自然な自己主張として現れます。その上もっと重要な事は、何でも他人に合わせ、その場に合わせる迎合的な卑屈な偽善的な態度が生まれて来るという事、及びこれが一番大切な事ですが、個人の独創性とか創造性、その持っている可能性の自由な発展が妨げられる危険があるという事です。
繰り返して述べて来たように、神経症とは人間の持っているそれぞれに独自な人間としての可能性の成長や発展が、色々な原因で妨げられた結果として生じるものです。
安全感を中心とした配慮的・依存的性格を持っている私たちの文化は、Aさんたちのような依存型の神経症を生み出し、その合理化を助け、それを増強して行く危険を持っている事を充分理解しておきたいと思います。

支配型と我が国の文化
立身出世
今から百年前明治維新によって我が国における長い封建的身分性が崩れ、一応市民平等の世の中になりました。
そして先進諸国に追いつく為富国強兵を目的とした国家の要求は、政界や財界、実業や軍事的な部門にも優秀な才能を必要として、今までの身分制に囚われずに人材を盗用しました。確かに古い制度の惰性は藩閥政治として残り暫く権力を奮いましたが、兎も角こうした変化は国民の活力を刺激し所謂立身出世という事が人々の目標となりました。
以後、色々の曲折がありましたが、次第に近代国家としての形を整え、資本主義の確立が行われました。そして、現代に至る間に強固な官僚組織・財閥・軍閥の発展があり、これからはそれぞれの優秀な人材を吸収して強大な権力組織を作り上げました。・・・(つづく)

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