無題
孤独なとき、人はまことの自分自身を感じる。
自分は些か無力である。
余計な言葉を吐き災いをもたらす。
人の気持ちを考えることができない。
人の優しさに甘えてしまう。
自分で自分の感情にけじめをつけることすらできない、惨めで弱く、醜い生き物である。
哀れな自分を、一体誰に見てもらいたいのだろうか。
どんな言葉を期待し、どんな表情を望んでいるのか。
自分は誰を求めているんだ。
外に答を求めず、孤独な状況で自分の内面と向き合えと、2500年間語り継がれている仏陀の言葉はいまの自分にどう聞こえてるか。
孤独の中に覗く真の自分と対話できる日はいつになったら来るのだろう。
他人に依存してまで取り留めた自尊心は、本当に自分が必要としているものなのか。
本当に大切なものというのは、他人によって与えられるものなのか、それとも自分の中にあるのだろうか。
人の優しさに触れたくて、慰めに甘えてしまう自分の言葉によって与えてしまった取り返しのつかない悪い影響にはどう責任を取り、どう向き合っていくべきなのか。
無力で弱い自分にはどうすればいいのか分かるはずもなく。
そうして誰か誰かと数多くの人に縋り、傷つけ、嫌悪を生み続けた。
「次は誰に声をかければ」は、次第に「誰になら声をかけていいのか」に変わり、そして周りに誰もいないことに気づいたとき、初めて孤独を自覚する。
何を求めているのかすら分からず、それでも尚何かを求め、血眼になりながら探し続けている、歩く屍のように。
部屋には時計の秒針が進む音だけが響いている。
この数時間、視界は見慣れた天井に支配されている。
2ヶ月前にドライにした白いガーベラは、その水分の抜け切ったか細い茎の根本から重たそうにこうべを垂れている。
この花はドライフラワーにするべきではなかった。
そう思うと同時に、脳内には今までに自分の放った言葉たちが、放つべきではなかった言葉たちが延々と鳴り響いていた、時を刻む秒針と音を絡めながら。
その旋律はいつまでも自分を蝕み続ける。
自分の罪も止まることなく、ずっと進み続ける。
いまの自分に、きっと熱はない。
無機質であり、何も生まない。
生きていることにすら疑問を抱く。
いっそ全てを終わらせられれば、とも、
こんなことでしか形を残せない自分が酷く憎い。
一体自分は、何が欲しいんだろうか。
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