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猿島と人と時代

猿島は聖域だった。

むかーしむかしの猿島はどんな場所だったでしょうか?いや、タイトルに書いてあるやんけ!って思った方が多いかもしれませんね😂
そうです。昔の猿島は今のような観光地でも、昭和時代の軍要塞でもなく、神聖なる聖域だったようです。『それってどゆこと?』と思ったそこのあなた!今から一緒に猿島と人々との関わりについて、すこーしだけ振り返ってみましょう!


猿島はやっぱり観光地だった!?

『えー!いまさっき観光地でもなくって言ったよね!!』と思った方正解です。でも実は猿島本当に本当に昔は観光地だったかもしれないんです!
遡ること縄文時代……


※その頃のことは文献などでもほとんど残っておらず、定かではありません。ここからは推測込みでの話だと思って読んでいただけると幸いです。



猿島には約1万年前と言われているこの時既に、人が立ち入った形跡が残っています。
その跡として遺されているのが、縄文時代の貝殻や石器、土器の一部などです。これは弥生時代のものも遺されていたようなので、恐らく縄文・弥生時代の時に人々が漁をする際に、拠点とするために訪れていたのではないかといわれています。

また、漁のためだけでなく、人々が度々バカンスとしても訪れていたかもしれませんね!


今でも猿島に詳しい方にお話を伺うと、『すこーし掘れば沢山(貝殻などが)出てくると思うよ』と仰られていました。
いつか発掘ツアーなんかがあったら参加して見つけてみたいものですね!!


猿島は神様が住む島

そしてここでようやく最初に紹介した『猿島は聖域である』という話題に到着しました!
弥生時代までは漁のため、バカンスのため(?)に人々が足を運んでいたと言いましたが、その後の時代からは古墳なども見つかっていることから人が立ち入っていたことは確かなのですが、猿島の捉えられ方が変化していきました。

神道の考え方は縄文・弥生時代に生まれたと言われています。伝来した稲作に基づき、自然を神と一体とみる自然信仰が日本列島に生じました。こうした信仰が古墳時代になると大和王権によって国家祭祀として列島各地に広められました。
また、神は高い木や角のある所に神がいるという言われもありました。


これらのことから猿島も古墳時代になると神様が宿る地、神聖な場所として崇められるようになりました。すると、縄文・弥生時代のように人々が簡単に立ち入ることはなくなり、緑だけが生い茂り、ひっそりと神社のある自然溢れる無人島として確立していきました。


猿島のこれから

人と猿島の関わりはいつの時代もその時、その場所で生きている人達によって生み出されてきました。
これからの関わりの形も今を生きる私たちにしか決めることは出来ません。
そこで!!ここに1つの提案をします!


その名も……

【(仮)猿島寄せ書きプロジェクト】


これは猿島に訪れた人が猿島に来てみて実際に感じたことや、思ったことを残せるスポットにしたいと考えています。
まだ猿島が観光地化して間もない頃に来島した人達によって書かれた落書きが、弾薬庫の中にありました。その落書きは『○月✕日 △△&□□』などと自分たちの足跡として残していく人達が多くいました。

しかし、今の猿島にはそんな風に自由に思い出を残していける場所はありません。落書きは遺産保護の観点から猿島にとっていい方法とは言えないので無いのも仕方ありませんが。


ならば!作ってしまえばいいのです!!
ということで!今回はここまで読んでくださった方たちに是非コメント欄にて、今日猿島に来てみて感じたこと、このnoteを読んで感じたこと、また昔の人が残したように今日皆さんが訪れた軌跡を残すでも良し◎


なんでもいいので、是非コメント欄に残して行ってもらえると嬉しいです✨

いつか猿島の中にそんなスポットが出来た時はまた書きに来てみてください!

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