見出し画像

スポーツ観戦との距離

以前のわたしはスポーツ中継を観るのが結構好きで、テレビ情報の雑誌を買って、事前に赤ペンでチェックして追いかけていた。オリンピック、世界陸上、サッカーのワールドカップ、テニスの四大大会、F1、相撲など。サッカーに関しては、Jリーグ、女子サッカー、ユースの大会、謎の親善試合などを見るためにスタジアムにも頻繁に足を運んでいた。一攫千金を夢見てBIGを買っていた時期でもある。

(そういえば、ドラマも、バラエティー番組も、番宣番組からではなく、新情報は紙媒体から得ていた。当時も、ネットはあったのだけれど、まだ情報が薄かった)

2000年代は各競技のグローバル化が個人レベルでも国レベルでも推し進められ、野球とサッカーは日本人選手がレベルの高いリーグへの移籍が毎年増加しており、独特の高揚感があった。スポーツを通じて、世界の文化を知ったり、身近に感じられることもあった。試合は知識が増えれば増えるほど、解像度が上がり、わかること、見えることが増えていくので、レベルアップしていく自分の面白さもある。

それはバブル崩壊から十年経過しても良くならない経済があり、わたしだけでなくスポーツに夢中になることで、問題を直視せずにいられるという現実逃避的な側面もあったように思う。

徐々にスポーツ中継を観なくなったのは、わたしが労働者となり、スポーツ中継を観る時間的な余裕がなくなってしまったことが一番の原因で、それは学生から社会人になるとき、誰もがぶち当たる壁だろう。とはいえ、ずっとファンでいて推し活を継続している人もいる。

それ以外に観なくなった理由は、わりとはっきりある。スポーツの世界にはナショナリズムがある。軽くて楽しいナショナリズムだけならいいのだが、当時は差別的言説がネット空間に広がっていく時期でもあった。テレビもナショナリズムを刺激して視聴率を取ろうという露骨な手法を使っていた。

昨今の「久々に帰省したら、毎日YouTubeを見ていた親がネトウヨになっていた」という悲劇の、その萌芽があったと思う。わたしも最初はナショナリズムを無邪気に面白がっていたが、段々そのドラッグ的な側面と、排外主義的な思想の蔓延に、ここには関わりたくない、と距離を置き始めた。わたしの正義感が強いというよりは、そこにはミソジニーも含まれていたからで、見てみぬふりをすることや名誉男性の一員となることは憚られた。(あと、日本スゴイ! とは思えないことも多かったので、そこに引いていたこともある)

ナショナリズムが好きな人たちは、思想的にはマッチョである。(彼らが身体的にマッチョであったかどうかは定かではないが…)そのマチズモは、女性蔑視と背中合わせだ。

女性ファンを「ルールもわからないくせに選手のルックスでファンになった馬鹿な女」とか、そのような中傷をネット上でよく見かけた。女性ファンはミーハーだと決めつけられ、「俺は正統なファンである」という主張に鼻白んだ。

スポーツ選手が性加害事件を起こしたとき、被害者の女性が誹謗中傷を受けセカンドレイプをされていた。選手だけでなくファンの加害行為も容認されていた。ヨーロッパのサッカースタジアムでは、フーリガンが暴れるぐらいなのだから、強姦事件などよくあることで、それこそが本場で、それを根絶すべきという論調ではなく、その常識を理解したうえで女性は覚悟を持ってスタジアムに足を運ぶべきだ、という誰かの書き込みを見たとき、「あ、スポーツはわたしには関係ないや」と思ってしまった。

スポーツを取り巻く事象や言説にまとわりつくマチズモをきっかけに、ある日を境に一気に醒めてしまった。嫌いになったというよりは、「はいはい、わたしはお呼びでないから、もう関係ないです」という風な変化で、愛憎半ばですらなく、急な絶縁であった。もちろん、わたしがスポーツ観戦に飽きて、時間がなく、仕事に集中しなければならない時期であったことも無関係ではない。ネットの影響も大きい。当然、男性優位主義で、何かを嫌いになっていたら、女性は何もできなくなってしまう現実がある。とはいえ、趣味の領域で、それを我慢をする義務も、義理もない。

もちろん、今もスポーツを観るのは面白い。100メートル走なんて10秒で終わってしまう競技だが、誰が一番速く走れるかを見るだけのシンプルさは爽快だ。ただ、それは町の運動会でも、同じぐらい面白いのかもしれない。それに職場の人と軽く世間話をするのに、スポーツはちょうどいい話題でもある。ただ、単なる観客(ファン)にも、中央と周縁があり、性別による違いで、サブ(二級市民)扱いされるのなら、そこに時間を使うことはためらわれる。

これはスポーツだけではなく、あらゆる場所に潜んでいる課題であり、スポーツが社会のありようを映しているだけとも言える。

この記事を書きながら、わたしたちが狩猟採集民であったのなら、運動能力が収穫の成果に直結するような気がしてきた。スポーツ選手は高給取りだが、人類が狩猟採集生活に逆戻りすることがあれば、彼らは大活躍するのだろう。それなら、やはり、身体能力の高さを競ったり、寿ぐことは、人間の生理そのものだともいえる。

最後にパリ五輪で一句。「セーヌ川 大腸菌で シルブプレ」でしめたいと思う。


チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!