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悲劇を消費しないために

どちらかといえば横須賀に近い、横浜の南から立川まで電車を乗り継ぐ私の通勤経路はふだんでも片道で最低でも2時間半、行きと帰りあわせてたいていは5時間以上がかかります。

今日はそれが倍近く、あわせて8時間かかるという珍しい日でした。朝は朝で京急本線上で人身事故があり、帰りはまた帰りでまた別の人身事故が発生した影響でした。

今日はそれ以外にも、相鉄線などで複数の事故が発生して、いつもより通勤する人々の足取りは重いものでした。

ツイッターで状況を調べていると、それらの人身事故のうちの一つは若い子で、しかも自分自身の最後の瞬間を配信していたらしい動画も、すでに削除済みであるにもかかわらず心ない人々がシェアしているのを見てしまいます。

私は、大きな疲れと、大きな怒りを抑えきれないような気持ちになります。どうして世界はこのようになっているのかという理不尽さに対する疲れと怒りです。

しかしその考えはすぐに悲しみに変わります。あり得た世界はどうして毎日こうも容赦なく奪われるのかという悲しみに。

そして悲しみは諌めます。なにか美しいものを書きたまえと。世界が理不尽ならば、せめてそれを慰めるようなものを書くこと。それが立ち向かうことになるのだと。

ああでも、それは時としてなんと難しいのでしょうか。

せめて繰り返される事故が、忘れ去られる雑事とならないことを、取替可能で、ちょっと待っていれば解消する不具合として何事もなかったかのように流されないことを。考えることをやめないことでしか、私にはどうしようもありません。

そのためなら、少しくらい通勤時間が長くなり、思索の時間が増えるのは私にできるせめてのことなのです。


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