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PARCO PRODUCE 2024『リア王』

ここ数年、観劇にすっかりハマってしまって劇場に足を運ぶことも増えてきた。映画は備忘のためのメモをFilmarksに、読書記録はブクログ(こちらはたまにだが)に残している。しかし、観劇の記録はどうしよう。

….と困っていたら、折よく友人に「noteを書け」と薦められた。時間は経ってしまったが、忘れない内に急いで書き残しておきたい。

3月下旬、東京芸術劇場プレイハウスにて「リア王」。

話が分からない=戯曲が読めない という気付き

シェイクスピアは高校時代から主要作は読んできた。ただ、さっぱり中身を覚えていない。なぜか覚えられないのだ。ふと自分が内容を覚えていないことを思い出すたびに読み返したりもしてきたが、それでも繰り返し忘れてきた。

「リア王」を翻案した黒澤の「」も最近見返したばっかりだし、まあ劇場で観ている内に思い出すかもしれない….?なんてゆるく構えていたが、一緒に観に行く友人が元の戯曲をしっかり読んで臨むと宣言していたこともあって、自分も慌ててkindle購入。結果的に万全の体制にて当日を迎えることとなった。


話の筋としては、ブクログにも書いたが下記のような感じ。

国王引退に際して国を三つに分割して娘たち(長女と次女に関しては娘婿)に渡すことを決意したリア王。渡す前に「親への愛を語れ」と娘たちに大喜利させるが、姉たちの歯が浮くようなおべんちゃらが使えない程に率直かつ純真だった末娘のコーディリアを勘当、国外追放とする。

リア王は長女ゴネリル、次女リーガンの家を行ったり来たりの余生を考えていたものの、リア王親衛隊も含めた素行の悪さ・態度の大きさもあって、2人に邪険にされ、台風の中追い出され、狂っていく。

当時どういった感覚でリア王の言動が捉えられていたのか分からないが、現代の感覚からすると親としては完全なる失格とは思う。権力の頂点に立つ人間がその権力を手放すことが如何に難しいかという視点で考えれば、今にも通じる話だ。加えて、ここには老化によって世界が閉ざされていく悲しみがあり、自らの愚かさゆえに全てを失っていく悲劇があった。

https://booklog.jp/users/meguros/archives/1/448003305X

今回、「リア王」を実際に観劇して分かったのは、話の筋としては一時的に分かったつもりでも、その戯曲に流れている感情を汲み取れていないから内容が頭に入ってこなかったのだということ。そりゃそうだろ…とも思うが、ではなぜ頭に入らないのか?を考えると、それはきっと戯曲を読めていないからだろう。

小説ではセリフ以外にも心理描写が事細かく書いてあるため、登場人物の置かれた状況やその時の心理を想像するのは難しい作業ではない。しかし、戯曲はそうではない。自分が読んできた戯曲は数少ないが、どれもむしろ読者には不親切とも言えるくらいに情報が少なかった。

素人の目には空白にしか見えない会話の隙間に、演出家は劇作家が託した意図を見い出す。書いていないからこそ、様々な味付けが演出のフェーズで可能になるのだろう。また、きっとそれこそが観劇の醍醐味の1つでもあるはずだ。今回、感情を込めた発話がなされることで初めて気付くことが多くあった。

加えて、シェイクスピアの天才性に初めて気づけたのも今回の観劇のおかげである。400年くらい前の人だよな….と思っていたら、翻訳の松岡氏がインタビューで下記のように話していた。

例えば『ハムレット』が書かれたのは関ケ原の合戦の年で、亡くなった年は徳川家康の没年と同じだということ考えると、日本の歴史で江戸時代の初めの頃に、こんなに今に通じる話をたくさん書いてるということに、みなさんびっくりされるんじゃないかなと思います。

https://stage.parco.jp/blog/detail/3357/

演出について

松岡さんがすべて解説してくれているので、また引用。写真で見ると変な感じなのだが、実際に見続けていると全然気にならなくなるから不思議。

現在上演中の『リア王』は、ショーン・ホームズさんの演出がいわゆる時代物という感じではなくて、衣装も装置も現代の社会にあるものを使ってらっしゃるので、台詞はシェイクスピアの書いた戯曲の翻訳そのままですが、中身は今の私達に通ずるような、今の親子関係、今の高齢者問題、今の財産分与の問題というのが全部含まれています。そこがやっぱりシェイクスピアの面白さだなと思います。

https://stage.parco.jp/blog/detail/3357/

セリフがそのままなので、予習しておいて本当に良かった。大昔の話ではありながら、セリフも変更せず、舞台設定や衣装をかえるだけ。王の退位をめぐる話でありながら、どこかのオーナー企業の社長が社長職から退く話にも見え、いかにその権力を手放す事が難しいか、昭和に生きた男の価値観が時代錯誤のものとなって子供たちに見放され、クーデターを起こされて会社乗っ取りに遭う話にも思えてくる。

役者について

今回、個人的にいちばん驚いたのがコーディリアを演じた上白石萌歌。この人以外にコーディリアはもはや考えられない。歌パートもあるのだが、まるで天使の歌声で、お姉さんも含めてどうしたらこんな子供が育つのか。

この「リア王」は娘たちを失う親の悲劇でもあり、自分も娘の父であることからその心中を思うに耐えられないものがあった。

鈴木版「リア王」

敬愛する鈴木忠志氏は「リア王」の演出にあたってこう書いている。

世界は病院である
世界あるいは地球上は病院で、その中に人間は住んでいるのではないか、私は、この視点から、多くの舞台を創ってきた。ということは、多くの戯曲作家は人間は病人であるという視点から、人間を観察し、理解し、それを戯曲という形式の中に表現してきたのだ、と私が見做していることになる。戯曲作家の中には、それは困った考えだという人もいるかもしれないが、優れた劇作家の作品はこういう視点からの解釈やその舞台化を拒まないというのが、私の信念になっている。それゆえ、ここ数年の私の演出作品は舞台上のシチュエーションがほとんど病院になっている。それも単なる病院ではなく、精神病院である。

 このシェイクスピアの『リア王』を素材にして演出した舞台も例外ではない。主人公は家族の絆が崩壊し、病院の中で孤独のうちに死を待つしかない老人である。その老人がどのような過去を生きたのか、その老人の回想と幻想という形式をかりて、シェイクスピアの『リア王』を舞台化したのがこの作品である。

https://www.scot-suzukicompany.com/works/01/

鈴木さんの場合、「リア王」に限らず戯曲をそのままという形ではなく、素材の断片をつないでテーマをより先鋭的に際立たせる方法を取る。

自分は演劇を見始めたといっても、ほぼ鈴木演劇しか観ていないので、今回のような元の戯曲を戯曲通りにやる演劇(こちらが一般的なのだろうが)はむしろ新鮮だった。

ただ、こうなってくると鈴木版がどうしても観てみたくなる。Youtubeにも上がっておらず、DVD-BOXにも未収録。この夏、利賀でやってくれたりすれば良いのだが。

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