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文庫本

 目覚ましが鳴った。千颯(ちはや)はもう目が覚めてはいたが、憂鬱な気分で寝返りを打っただけだった。
 いつも通っている理容室が臨時休業だったのがいけないかった。たかが一センチのことと家族には理解されない。だがこの年頃の少年にとって、前髪を一センチも短く切られてしまったことは重大な事件である。
 寝台の中で千颯は前髪を手ぐしで梳いた。普段は眉に被さる長さに整えておくのだが、今日は額の辺りでまっすぐに切りそろえられている。
 
 学年が改まって二日目。二回の目覚ましの音で、千颯はのろのろと寝台から出た。制服に袖を通して姿見を見る。最上位組のバッヂが上着の襟で誇らしく輝く。シャツの首元に結んだ濃紺のリボンタイは最高学年の特権だ。二ヶ月前までは青のリボンタイを結びながら上級生をうらやましく見ていた。だが短すぎる前髪には似つかわしくないような気がしてため息をついた。

 キッチンでトーストにバターを塗って食べる。のろのろと朝食を済ませると、すでに登校するには遅い時間になっていた。
 部屋に戻った千颯は、制服を脱いでしまうと、普段着のシャツに着替えた。登校する気分ではなくなっている。
 家の中でもきちんとした格好をするのが千颯の流儀だ。上着はさすがに着ないが、赤瑪瑙の留め具が付いたループタイを蝶結びにした。
 
 両親はすでに仕事へ出かけている。時間を持て余した千颯は、何年かぶりに大叔父の部屋に入った。染みついた外国煙草のにおいが鼻をくすぐる。
 大叔父は熱心に読んでいた新聞から顔を上げチラと千颯を見た。もの言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わずに視線を新聞に戻した。この年になっても眼鏡の必要がない人である。家の中でもきちんとした服装で、椅子の上でピンと背筋を伸ばしている。千颯の服装はこの大叔父からの影響を受けていた。大叔父がゆるめに付けているループタイは、黒蜜糖と同じものだ。
 千颯は書棚の前にたたずむと、日に焼けた背表紙を眺めた。幾つか引き抜いてはパラパラとめくる。昔の文庫本の、細かな活字がうっすらと黄色くなった紙の上に並んでいる。行儀良く整列する文字の中に、所々に列からはみ出ていたり斜めになっていたりする文字がある。そのことに千颯は興味を引かれた。
 
 まだ夏休みの名残を思わせる日差しが差し込む部屋は静かだ。時おり紙をめくる音がする。大叔父も新聞を読み終えて、文庫本を開いていた。いつしか千颯は書棚の前に座り、手に取った文庫本に没頭していた。

 大叔父は、若い頃に連れ合いと子供を同時に失って以来独り身を貫いている。脚を悪くして還暦前に仕事を辞めた後は、千颯の両親が引き取って一緒に暮らした。姪である千颯の母に子供が生まれたときの喜びようは、親戚が集まった折には一四年経った今でも話題に上る。千颯にはそれが恥ずかしく、この頃は学校の予定を理由にして顔を出さないことも多くなった。
「その本は、難(むつか)しかないか」
 不意に大叔父が、千颯の方へ首を伸ばして手にしている文庫本の表紙を見て言った。
「別に」
「そうか。それを読めるなんて、千颯は頭が良い」
「このくらい普通に読めるよ」
 千颯は文庫本から目を離さずに答える。教科書にも載っている作家の短編集で、一作読み終わればまた次へと頁をめくる手が止まらない。頽廃と気鬱のうちに生涯を終えたという作者だが、作品には人を楽しませる気遣いがなされている。
「その本はお前にやろう」
 いつか約束しただろうと大叔父が言う。
 若い頃からこの大叔父は暇を作っては本を読んでいたという。一度読んだ作品は手元に残したがり、冗談にも手放すなどと口にしたことはない。この家に引っ越すときも蔵書の扱いには苦労したらしい。
「学校なんていうのは、並んで教科書(ほん)を読むだけのところだからな。自分で本が読めるなら無理して学校で勉強することもなかろう」
 大叔父の言葉に、千颯は読みかけの文庫本を乱暴に閉じた。行儀良く並んだ活字から少しはみ出てしまった文字が、急に不愉快になったのだ。

 夏期休暇に入ったばかりの頃、千颯の通う学校で宿泊行事があった。宿舎の同室は普段から仲の良い隼颯(はやち)もいたため、千颯は幾分気楽に参加することができた。
 学校ではそつなく過ごしている千颯だが、親しく話す相手は多くない。心許せる相手となれば別の学級の隼颯をおいて思い当たる人はいなかった。
 夜。一通りの少年らしい話題が尽きると、新学期からの組み分けについて口を開くものがあった。
「僕は今度からもなんとか上の組には入れそうだから、千颯とはまた同じだろうね」
「そう、だろうね。またよろしく」
 もちろん千颯には自信があった。最上位の組でも三番目までには入れるだろうと思っている。
「僕はまた下の方さ。来年卒業したら上の学校に行くのはよして、どこかに働き口を見つけるように両親から言われてしまったよ」
 そう言った少年はチラと隼颯に視線をやった。隼颯は言いにくそうに一度顔を伏せると、決心したように千颯を見た。
「僕は新学期から、最上位に入れるかもしれない。この前の試験は割にできたんだ」
 隼颯の言葉に、同室の者達は祝福の声を上げた。千颯も同じようにおめでとうを言いながら、内心は穏やかではなかった。

 千颯が隼颯と親しくなったのは、頻繁に図書室で顔を合わせていたからだ。
 元々上位の成績でこの学校に入学した千颯とは異なり、隼颯は平均的な成績の生徒だった。親の期待に応えて無理をして進学先を選んだというのである。授業に遅れないようにと放課後も熱心に勉強し、翌年には上位の組に入ることができた。
 千颯が図書館にいたのは、ただ周囲を納得させるためだけである。それほど熱心にならなくても最上位組の授業について行ける。だが最上位の組にいるのは努力をしているからだと思わせておくことが、平穏な学校生活には不可欠であった。
「最終学年では、僕も最上位に上がれるようにしたいな」
 この一年間言い続けてきたことを現実にした隼颯に、千颯は身勝手な失望を感じて毛布(ケット)を首元まで引き上げた。
「済まないけれど、先に休ませて貰うよ」
 雑木林の散策で疲れたからと言って目をつむる。
 それからしばらく小声で話していた少年達も、やがて寝息を立て始めた。

 最上位の組は、同じ学年の生徒三百人のうち十五名が選抜される組である。その先の進学先も誰もが知っているような有名な学校であり、この組を卒業できれば将来は安泰だと言われている。
 昨日の始業式で、千颯は自分が今年度も最上級の組に入れたことを確認した。当然のこととして受け止めた後、教室で座席の並び方に目を疑った。前列中央に成績一番目の生徒が座り、左右や後ろに行くほど下位の生徒が座る。千颯が指定されたのは十四番目の座席だった。
 何かの間違いだと思いながらも席について担任が入室するのを待つ。隼颯は十番目の席から千颯に誇らしげな笑顔を向けてきた。それから自身の前髪に触れて首をかしげる。千颯は隼颯の視線から逃れるように窓の外を見た。早くこの場から立ち去りたかった。
 やがてやってきた担任から、二ヶ月前の期末試験の成績が返された。今までとそれほど点数は変わらない。だが確かに総合成績十四位と書かれていた。進学に向けて、他の生徒の準備が進んでいることが知れる。
 
「千颯」
 名を呼ばれて千颯は顔を大叔父の方へ向けた。大叔父は、千颯がまだ小さな子供だったときも、大事な話をごまかしたりはしなかった。だから千颯もそれに答えて、大叔父の話は真剣に聞いた。
「千颯は頭が良い。だけど自分は教科書(ほん)がよく読めるというつもりになって手を抜いてはいけない」
 千颯は、ぐっと拳を握りしめた。
「自分はきちんと教科書を理解しているか、点検しなければならないし、理解できていないところは復習(さら)わなくてはいけない」
「はい」
 千颯の返事に、大叔父は二、三度頷いて手元の文庫本に視線を戻した。
「叔父さん、この本、僕が大きくなったら貰っても良いかな」
 千颯は古い文庫本を掲げた。大叔父から大事な本を貰えるような人間になりたいと思ったのである。

「叔父さんも亡くなって、もうずいぶん経つでしょう」
 部屋で教科書を復習っていた千颯に母親が話しかけてきた。母親というものは、どうして息子の部屋をノックもしないで開けるのかと疑問に思いながら頷く。
「あの本もねえ、埃っぽくなるばかりだし、そろそろ処分したいんだけど。古本屋で引き取るかしら」
 千颯はここで初めて母親を振り返った。
「無理じゃないかな。古本たって貴重な本は無いんだし」
 そうねえと母親は頷く。
「捨てるのもあの量じゃあ大変ね」
「そう急がなくてもいいと思うけど」
 千颯は暗に反対したが、母親はすでに決心しているらしかった。あの本棚には、まだ読みたい本がたくさん残っているのだ。それに、いつか貰うつもりの文庫本も一緒に置いてあるのだ。
「明日はお父さんも休みだし、ちょうどいいわ。車を出して貰って処分場へ行って貰いましょう。あんたも手伝うのよ」
 夏期休暇明けから学校へ行かない千颯に母親が命じる。
 母親の決定は覆りそうもなかった。

 一月ぶりに入る大叔父の部屋は、やはり外国煙草のにおいが染みついていた。母親が乱雑に古本を段ボール箱に詰めている。
 あの本だけは手元に残したかった千颯だが、すでにどこに紛れてしまったか分からない。千颯は渋々古本を梱包するのを手伝った。自分が読みたい本を分けようとしたが、母親はそれを嫌って全て箱詰めさせられた。
 父の運転する車が三往復する頃には、大叔父の部屋だった場所は大きな空っぽの本棚と机と椅子だけがある、がらんとした部屋になった。
 外国煙草のにおいだけが大叔父の気配を残している。

 古本を扱って埃っぽくなった千颯は、浴室に入り何気なく鏡を見た。
 切りすぎた前髪はようやく千颯の納得のいくまで伸びた。だが今度は襟足が長すぎる。明日はいつもの床屋に行こうと決めて風呂を済ませた。

 床屋からの帰り道、久しぶりにさっぱりとした気分になった千颯は、少し遠出をしてこぢんまりとした本屋に立ち寄った。
 新刊はあまり置いていないが、店主がこだわって作り上げた本棚が心地よい。
「千颯君、だね。すっかり見違えたよ」
 大叔父と親しかった先代が店の奥から出てきた。腰の曲がった柔和な老人だ。
「叔父さんから預かっていたものがあるんだよ」
 帳場に入って引き出しをごそごそしていたが、やがて一冊の文庫本を持って千颯の前に立った。
「あの人が亡くなる前に、千颯君にと頼まれた物だよ」
 千颯は古い文庫本を受け取った。微かに外国煙草のにおいがする。
 もう三年近く経つのかと、先代はしみじみと呟いた。
「これは」
「気に入っていたそうだね」
 パラパラと中身をめくる。
 行儀良く並んだ古い活字の中に、列からはみ出したり傾いている活字が幾つか見える。
 頽廃と気鬱のうちに生涯を終えたという作者の作品は、いつでも千颯の心を引きつけた。
 不意に、千颯は明日から学校へ戻ろうという気持ちになった。
 学校の順位が下がったことを他人のせいにする己の慢心を、大叔父にとがめられたような気がしたのである。

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櫻居 惠

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小説の一次創作をしています。 作品は「さくらの森 別館」でもお読みいただけます。 https://plus.fm-p.jp/u/sakuranomori 「pixabay」「いらすとや」より、写真・イラストをお借りしています。

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