見出し画像

「楽しくない」ってなんだろう

子供のとき「これって楽しいのかな?それとも楽しくないのかな?」というのがよくわからない、ということがよくあった。

・多分みんなが楽しいって言ってるから楽しいんだろうな。正直、私には楽しさがよくわかんないけど、楽しいって思ってたほうがいいんだろうな。

・私は楽しいって思わないけど、楽しいって思えた方がなんとなくこの先の人生うまくいきそうだな。

というように。だって楽しいもの/好きなものが多い方が、

・友達と共通の話題もできるし
・職業選択の幅も広がりそうだし
・「何にでも興味を持って取り組んだ方がいい」って先生も言ってたし

と思っていた。今思えばこういった「苦手なものは少ない方がいいに決まってる」という思い込みが、自分が何かを楽しいと感じる感受性のセンサーを麻痺させてしまってたたのだろうなと思う。単純にいろいろなことをやってみたいという欲が強かったものあるし、自分の感覚に自信がなかったのもあったと思う。とにかく「自分のことなのによくわからない」ということがとても多かった。


でも矛盾するようだけれど、本当の本当の本当は、ちゃんとわかっていた。少なくとも子供時代の私は、

①運動が嫌い
②算数が苦手
③大人数の友達とわいわい遊ぶのが嫌い(2~3人の友達となら楽しめるけど)

と思っていた。でも「そんなことを言ってしまうのは負けだ」という気持ちが強くてそのことを認めたくなかっただけだった。一体なにと戦っていたのって話なのだけど、具体的には

①運動は嫌いなんて言ったら、どんくさいと思われそう

②算数が苦手なんて、バカだと思われそう

③大人数の友達とわいわい遊ぶのが嫌いなんて言ったら、なんか暗そうって思われて遊びに誘われなくなりそう

という勝手な思い込みによるものだったと思う。いずれも、具体的に誰かに何を言われたというような決定打があったわけではない。①と③はおそらく学校生活の中で少しずつ植え付けられていった価値観だし、②の算数(数学)に関しては、私の母と祖母がめちゃめちゃ計算が得意だったので、その憧れの裏返しだったと思う。

そんなわけで、私の10代~20代は自分の感覚を自分で肯定する、いわゆる「自己肯定感」が今思えば低かったのだけど、

でも、もし仮に自己肯定感がめちゃくちゃ高い世界線に子供の頃から生きていたら、やってみようとさえ思わなかったことがたくさんあるし、出会えなかった人もたくさんいる。

「不足を補うにはどうしたらいいか」という発想で生きてきたのが、良かったこともあるし良くなかったこともある。

苦手だったり嫌いだったりするものは自分の特徴を知るチャンスととらえて、「克服しなくては」ではなく、いかにして違うアプローチをするか、というふうにしていくのが心地よい生き方につながると今は考えている。

だがしかし、見逃してはならないのが、苦手だとか楽しくない思うことは「どうしてそのように思うのか」という分析には時間をかけてもいいと思っている。なにがどんなふうにいやなのかを分析するというか。

「なんかイヤ」「なんかよくわからない」で片付けてしまってもいいのだけれど、それはかなり粒子が大きい状態だ。粒子を解きほぐしていけば何かしらの原因に突き当たると思うのだ。

無理に苦手なものを得意になったり、楽しいと思わないものを無理に楽しいと思う必要はまったくないけれど、 出会う時期やタイミングによって物事への印象は全く変わるし、細分化してみると「この要素は苦手だけどそれ以外は意外と好き」という場合もある(例えば運動なら球技は苦手だけど走るの自体はそんなに苦にならない、などのように)

いずれも「感情の解像度を上げていく」のが必要かなと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?