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ゴミ袋が重すぎる

週に2回の燃えるゴミの日、片手に娘の車椅子、片手にゴミ袋を掴み家を出る。

養護学校に通っている娘は、心身に重い障害を抱え医療的ケアも必要な為スクールバスに乗ることが出来ず、車で送迎している。毎日ドライブ。

登校時、ゴミを先に捨てておけば身軽なのだけど一回で済ませようというのが隠しきれない、大荷物を抱え重い障害の子を乗せたでかい車椅子を片手に、更にもう片手にごみ袋をつかんでいる私の姿ははたから見るとおいおい大丈夫かよとハラハラするらしく、ご近所の誰かしらに出くわすと

「ちょっとちょっと!もつわそれ!」

と半ば強引に奪われる。ありがとうありがとう。一度、普段あまりお話ししたことのない方から思いがけず声をかけてもらったこともあった。

「持ちますよそれ」

からの小声で

「おもっ…」

を聞いたときには申し訳なさとありがたさと恥ずかしさとで赤面しペコペコしまくった。ごめんなさいそれおむつが詰まっててああ自分で持ちますからそんなああすみませんすみません嬉しいなんでそんなに優しいんですかありがとうございますぅぅぅぅぅ

そう、匂いの漏れない袋に入れ口をギュッと結んだおむつ入りの我が家のごみ袋はべらぼうに重い。そしてギュウギュウカチカチに詰まっているのでさながら武器。それが実際に武器として活躍する機会は、ないけども。

そして肢体不自由児のこどもを持つ親はだいたい怪力。(わたししらべ)


去る3月、全国の子供達がさぁ皆さん家にいましょうと言い渡されたとき、我が家の娘も例に漏れずステイホーム開始となった。


学校へ行き、放課後はデイサービスに行き、病院、リハビリ、家では訪問診療に訪問介護に訪問看護に訪問リハビリ…娘の毎日はたくさんの人の手助けによって成り立っていて、それは娘のサポートであると同時に、私にとっての大きなサポートでもあり。それが、一つ、また一つ、と止まっていった。

最終的に最低限の訪問入浴と訪問看護だけが残り、他はすべて止まってしまった。

行き場がない。拠り所がない。ああ、昔に戻ったみたいだ。


13年前。

娘が退院する1歳2ヶ月までお世話になった病院は、当時まだ娘のような医療的ケアの必要な状態の子どもの退院サポートを経験したことがほとんどなかったそうだ。

かといってなんのサポートもなく病院から放り出されたりしたわけではなく、身体障害者手帳の取得や幾つかの手当ての申請、必要な医療機器、この時は痰の吸引器の購入など、その時わかる限りのことで、とても親切に手を差し伸べてもらったと思う。

私も、医療的ケアのある子が在宅で暮らす上で得られるサポートなんて、当時は全く知らなかった。

「退院し家に連れて帰るか、手放して施設に預けるか。」

退院間際に主治医の先生からかけられた言葉に、ろくに悩みもせず娘を家に連れて帰ることを決めた。手放すなんてありえへん、絶対連れて帰るに決まってる、この子を手放すなんて先生何言い出すん、びっくりするわ、ぐらいに思っていた。

未知の世界、誰も知らない領域に足を踏み入れることは、不安と緊張と、やっと娘を連れて帰れる喜びと、複雑な心の中はご主人の帰宅が嬉しくて嬉ションする犬のような、「なんちゃらハイ」みたいな、今思えば、多分若干の混乱。


そんな、なんちゃらハイなよくわからないテンションに任せた、なんとしても絶対家族みんなで家に帰るぞなんとかなるなる!愛情と根性と若さはたっぷりありますハイ!絶対何とかしますから!的な勢いは、数ヶ月持たなかった。

愛情と勢いと若さに任せた根性だけで何とかなるほど甘くない医ケア児育児。


退院後すぐの娘は24時間経腸栄養注入が必要で6時間ごとに新しい栄養剤を補充し、常時酸素吸入や痰の吸引が必要だった。一日に何十回も吐き、しょっちゅう吸引し、少しの物音などの刺激でてんかん発作を起こしては大声で泣き、いつも難しい顔をして…


これが昼夜なく一日中続き夜もほとんど眠らず泣いてばかりで、30分と続けて眠ってくれない。泣くのと発作するのは抱っこしていると幾分マシだったのでとにかくずっと抱っこしていた。

夫も協力はしてくれたけれど、日中は仕事に行かねばならないし、夜遅く帰宅し朝早く出かけていく夫に無理はさせられないと遠慮してしまい、上手に甘えられなかった。

毎日毎日ろくに眠れず途切れることのないケアと泣きっぱなしの娘を常に抱っこし、あれ、私いつ寝ていたっけ…?寝不足が過ぎたのか、生活がハード過ぎたのか、正直この頃のことはあまりはっきりと思い出せないことも多い。


この頃私には娘のことを相談できる相手がいなかった。

忙しそうな夫にも、学生時代の友達が会いに来てくれても、弱音も吐けず愚痴も言えなかった。

愚痴や、弱音を吐くことが娘を否定してしまうことになるような気がして。決して、そんなことはないのに。


でも心の中にはどこにも吐き出すことのできない弱音がパンパンに詰まっていた。

『なんで泣き止まないのなんで笑ってくれないのなんで吐くの発作するの何でこの子のところに病気なんて障害なんてやってきたのなんで誰も助けてくれないの辛い、辛い、辛い』

幸せにしてあげたくて、家族で絶対に幸せに暮らすんだと意気込んで連れて帰ってきたのに、娘は満たされてるようにも幸せそうにも見えなくて、大泣きする娘を抱きしめて、私も娘と一緒になってさめざめと泣いた。

世界中から取り残されてしまったのだろうかと錯覚するほどに孤独感が強くなっていった。娘を家に連れて帰ってからたった数ヶ月、睡眠不足と疲労と孤独は、人から冷静さと思考能力を奪い、いとも簡単に追い詰める。

あんなに生きて欲しいと願った娘と一緒に死にたくなったのはこの頃だった。


しばらくして、当時の主治医の先生が今のかかりつけ病院に繋げてくれて、リハビリのために1ヶ月入院することになった。元いたのは総合病院で、新しい病院は病気や障害の重い子に特化したこども病院だった。


初めて病院に足を踏み入れた時、買い物に出ても通院しても街のどこに出かけても娘と同じような子には出会えなかったのに、そこには娘と同じように鼻にチューブが入っていたり医療機器を携え体に不自由のある子たちがたくさんいて

「みんな、ここにいたんや…」

涙が出た。娘も私も、ふたりきりで世界から取り残されていたんじゃなかった。

リハビリ入院だったはずのその時の入院は結局娘の体調があまりにも落ち着いていなかったことからリハビリは思うように進まず、薬の調整や嘔吐の対策入院へとぬるっと移行した。


栄養剤の量の調整や薬の調整で発作と嘔吐がマシになると、娘はあまり泣かなくなり少しずつ笑うことも出てきた。


入院中同室になった子の繋がりから療育にも繋がり、2歳になる少し前の4月療育園への入園が決まった。

週2回の親子登園から始まり、慣れてきた頃には残る週3回の単独通園も始まった。就学までの5年間、先生方から浴びるほどの源泉掛け流しの愛情と手厚い支援を受け、娘はすくすくと育った。

少しずつ世界が広がって、娘に家以外の居場所ができて、私にも、信頼できる味方ができ、少しずつ弱音を吐くこともできるようになった。

そしてほどなくして、私は腰を痛めた。

娘は体こそ健常児ほどは大きくなかったが、四六時中軽々と抱っこをしていられるほど小さくもなかった。

首や腰の座っていない幼児が、体にぴーんと力を入れて全身棒みたいになったり、完全に脱力してふにゃふにゃになったりを繰り返し、それを絶対に落とししてなるものかと抱き、お風呂なども片手で横抱きして片手で洗い、そんな生活を続けていたら、いよいよ私の腰は爆発した。

そんなこんなで肢体不自由児の親のぎっくり腰経験率はなかなか高い。(わたししらべ)


後に定期的に経験することになるぎっくり腰に、実際になってしまうその前に手を打った方がいいと、療育園で出会ったPT(理学療法士)の先生がそんな私を見かねて家にヘルパーさんを入れることを提案してくれた。

家に他人を入れることと、娘の世話を誰かに任せることへの抵抗感から

「いや、まだそういうのは…」

と乗り気でない私に

「こういうのはまだそういうのはいいかな、って間にやった方がいい。今困ってる!って時に声を上げたんでは遅いから。まず繋がることが目的で、週1回からとかでいいから。」

とやり手の営業マンみたいに私を納得させた。契約成立。

ヘルパー事業所さんとお付き合いが始まり、先生の言った通りまず週1回の入浴介助からスタートし、年数を重ねるにつれ利用日数が増え、家での生活の心強い味方がどんどん増えていった。

ヘルパーさん、訪問看護の看護師さん、訪問リハビリのPTの先生、訪問入浴スタッフのみなさん、毎日のように誰かが家にきてくれる。最初あった抵抗は微塵もなくなった。むしろ、来てくれなくちゃ困る。家族みたいな大事な人がたくさんできた。


家の中に、外に、社会に、居場所ができること。

行き場があること。

拠り所を得ること。

そのどれもが当たり前ではないこと、その有り難さを、たくさんのものが止まってしまい、それをイヤというほど、実感した。


週二回の燃えるゴミの日。この数ヶ月のゴミ袋の重さは自粛生活前のそれとは比にならない重さだった。

娘は毎日学校へ行き、放課後はデイサービスへ行き、日中出たおむつのゴミはそれぞれの場所で処分してもらっている。

世の中がウイルスでざわつきウイルスに泣いた自粛中、3月からずっと娘は毎日家にいた。毎日家にいたから、重いゴミ袋はいつもより更に重くなって、ひとり抱えてゴミ捨て場に出しに出掛けた。


そして、少し形を変えはしたけれど、生活のほとんどが一旦元に戻った今、我が家のゴミ袋は3月までと同じように、少し軽くなった。いや、相変わらず、重いんだけれども。


今まだ先の見えない長い戦いは始まったばかりだと、偉い人達は言う。また同じことが繰り返されるのかもしれない。

願わくば、なるべくなら繰り返さずに済みますように。いつか終わりを迎えられますように。

手を洗いマスクをし、大切な人と新しい距離で、心を繋いで、みんなで。

また、我が家の重いゴミ袋が更に重くなりませんように。


片手に娘の車椅子、片手に重いゴミ袋を掴んででかける、変わらない慌ただしい朝の、愛しいことよ。

いただいたサポートは娘の今に、未来に、同じように病気や障害を抱えて生きる子達の為に、大切に使わせていただきます。 そして娘の専属運転手の私の眠気覚ましのコンビニコーヒーを、稀にカフェラテにさせてください…