研究や芸術において、ひらめきが生まれる過程の話をしよう。ルートを限定しないとワープする。
わたしは大学を二回出ているのだけど、一度めの大学では、心理学を勉強したかった。
卒論で選んだテーマは、創造的認知過程。
研究や芸術などにおいて、アイデアが生まれ形あるものがヒトの手によって創造されるときに、どんな認知プロセスが働いているのかに興味があった。
そして自分が最も気になっていたのは、「ひらめき」の部分。
認知心理学の分野では、洞察、と呼ばれる。
わたしは自分自身、詩を書いたり音楽を作ったりしていたので、論理的ではない、言葉で説明し得ない何かが働いている気はしたのだが、それが何なのか分からなかったし、知りたかった。
何か方法論が存在するならば、取り入れれば、傑作が生まれたりしないかなどという下心もあった。
ゼミの認知心理の先生が、フィールドワーク的手法をされていることが多く、観察法やインタビューを用いた。
ただ…一番知りたいものは人の頭の中にあるのだ。たとえ脳を切ってもあるのは肉だし、画像的に血流を見てもそれが何だというのか。
観察者であるわたしの頭を通しているかぎり、その鮮度を保つことは出来ないばかりか、変換フィルターの働きを許してしまう。
先生とは、よく頭の中そのまま移せるテレパシーがあればいいのに。と話していた。でもヒトには出来ない。だから言葉を尽くしてイメージの共有を図るのだ。
話が脱線。
要は、、
ひらめきのところ、見たい!知りたい!聞きたい!
ということなんだけど
過去の文献にも直接そこを追求したものはなかった。
結局卒論では、洞察がこういった条件下で起こりやすいなど考察することはし得ても、決め手となることには言及できなかった。実は制限を設けたときの方が洞察が生まれやすい説、とか。わずかな考察というのが、創造が行き詰まった際、保留にして時間をおいたり少し離れて見たりするとき、洞察がポンっと生まれることがある、ということを書いた気がしている。
今この話を20年後のわたしが思い出して、もう一度展開させてみると、どうしたってgiftとしか云えなくて、アカデミックな要素はゼロ。
勘、直感…日々当たり前に使っているような、それでいて時間や次元を超えて突如ワープしてしまうような。
そう、まさに、
してしまう
という感覚。
out of 人間ごと、降参してしまえ。
そんな独り言が出てくるのである。
当時の見解としては、創造の過程では、目的地と現在地を人が認識して、そのギャップを埋めていく、小さな目標を達成しながら、アイデアを形にしていくと考えられていた。こんにちもそれがスタンダードなのかもしれない(が今は確認するのはよそう)。
でももし仮に、次元を超えたりするようなものならば、わたしたちの思考が認識できる範囲にはないのかもしれない。物質的世界観で「そこ」を細かく砕いて分析しようとしても、粉々になって、何にも見えないわけだ。
顕在意識で認める材料や目標のみを使うのでなく、もっとわたしの知らない何かがある、そんな感覚でいるほうが、ポテンシャルを最大限に活かせるのでは、と仮説を立ててみた。
一回一回小さな目標を定めて、進むのもありだとは思う。
でも毎度「これで合ってるー?」と自分の進む道を監視しながら歩んでいくよりも、「知らん間にワープしてた!」が面白いじゃないか、と思い始めた。
どちらが良い悪いってことではなく。
実際、自分の頭で理解できるレベルを超えたことが起こるのは、多分皆覚えがあるのではなかろうか。
ただ、そこに意図はなく、全てby chanceだ。
いまいちど、ルートを限定せず、わたしが把握し切れない何か(それを神様と呼んだり宇宙と呼んだり大いなる力と呼ぶのかもしれないが)に身を委ねることを全力でやってもいいのかもしれない。
正誤チェックや監視にエネルギーを費やさず、その余裕の生まれた空間に、ひらめきが流れてくるようなイメージで。
自分観察で検証します。
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