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「8はやさしいのに、7はいじわるなのなんで?」永遠に解けない数字の謎。


「8はやさしいのに、7はほんとうにいじわるだなぁ。」

小さい頃のわたしは、当たり前のように思っていた。
小学校でさんすうを習ったその日から、ずっとずっと思っていた。

足し算をするとき、「5+7=」をするのが嫌いだった。
教科書やテスト用紙からの、
「5+8=」の問いかけには、ほっとしたのを覚えている。

「5+6=」をするときは、少し微笑ましい気持ちがした。
5と6はいつも仲が良いなぁ。なんて思ったりしていた。

今思えば、さんすうの時間は、
とくに5を基準に世界が回っていた。
まるで「5=わたし」かのようだ。

なんだか、5は全ての数字の弟分みたいな存在だった気がする。
多分5は、男の子だった。

6はいつでも幼馴染の女の子のよう。
7はいじわるな少し年上のお兄さん。
8には母性と余裕があった。お姉さんだったのかもしれない。
7と8は姉弟のような空気を持っていた。

わたしにとって10はいつでも大人だった。
みんないつでも10になる日を夢見ていた。
10はみんなの憧れだった。

だから、7が10に変わろうとするとき、
5から半分以上を奪う、7のことが少し憎らしかった。
8が10に変わろうとするとき、
5が8に与える2は、「大人になることへの祝福の贈り物」のような気持ちだった。

アンパンマンが自分のあたまをちぎって分け与えるような、
そんな優しさのある行為だった。

5と7を足すとき、5と8を足すとき、
生まれる12、13は、わたしにとって「10と2」「10と3」だった。

1はというと、神さまのような存在だった。
すべてが1の上に成り立っていた。
大好きな漫画の一つ、「鋼の錬金術師(著:荒川弘)」をはじめて読んだとき、

「一は全、全は一。」

の台詞を目にして、妙に納得したのを覚えている。

0はわたしにとって、未知の存在だった。
宇宙みたいな感覚だった。
いのちそのものみたいな、胎児のような感じがした。
少しの恐ろしさもあった。

当時のわたしは、みんなが当たり前のように感じていることだと思っていた。だから、あえてことばにすることも、もちろんなかった。

当たり前ではないと気が付いたのはもっとずっとあとの話。


大人になって「共感覚」という言葉に出会った。
これも共感覚の一種なのかもしれない。

小さい頃は当たり前のように感じていても、
年々、大人になるにつれて、
こういう、なんとも言い難い感覚が、
少しずつではあるけれど、薄れていくのを感じる。

なんだか、もうひとりの「わたし=5」が、
遠くで少し寂しそうに手を振っているような気がするのだった。

古い友人を忘れいくような気持ちがして、
なんだかとても寂しい。


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