母が死んだ。 ~父のこと~
今回のことがあって、生まれて初めてこんなに長い時間父と話した。
実家に電話をして父が電話口に出ても秒で母に代わりたがったし、子供のころに父と過ごした記憶は一切なく遺影探しのためアルバムをいくつも見た。何冊見てもいわゆる家族写真と世間でいわれるものは一枚もなかったことに改めて衝撃を受けていたりした。
家族全員で写っている写真は本当にただの一枚もなかった。
かろうじて父とわたしが写っていたといえる写真は、わたしが母のお腹に入っているときに父と母が二人で写っているものだけである。
父に関しては幼少期の思い出といえるものはただの一つもないし、父の性格などは実際のところよく知らない。
父の人となりを知るどころか、そもそも話した記憶が全くない。
20年以上一緒に住んでいたにもかかわらず、幼少のころは父が家に居た記憶すらない。
子どもの時の父は仕事であれば長距離トラックを運転していて数日留守にしているか、どこかに出稼ぎに出かけていて、家に帰ってきても終始パチンコに出かけていた。
覚えていることといえば、お給料日に手渡しのお給料袋の封筒からお金を抜いてパチンコに使い込んだ残りを母に渡していたことや、母がパチンコ代を出し渋ると恫喝したり暴力を振るったりしていたことで、ほんとうにろくな記憶がない。
父は大型トラックの免許と重機の免許を所持しており、現場でまじめに働けばそこそこ稼げたにもかかわらず我が家が貧乏だったのは、父の仕事が長続きせず些細なことですぐに仕事を辞めていたことととギャンブルをしていたこと、さらには母が家の財布を握っておきながら家庭を円滑に運営させる経済観念がなかったからだった。
父は仕事も長続きせず、ギャンブルもし、暴力も振るうあげく家事育児には全く興味がないという典型的な家庭を持ってはダメなタイプの男だった。
もちろん母の両親は見るからにチンピラな父との結婚に大反対したが、若い二人はほぼ出来ちゃった婚で押し切ってしまった。
結婚後、主にお金で苦労した母に祖母が援助などをしていたらしいが、子どもを持って安定するどころかどんどん悪化する家庭環境にしびれをきらし、父の居ない隙に祖父と祖母で母を無理やり実家に連れ帰ろうとしたことがあった。
母は裸足のまま家から連れ出され、泣き叫んでそれを嫌がった。
その時の記憶がきょうだい二人に鮮明にあることが、今回久々に弟に会って判明した。
おそらくわたしは6才か7才、弟は4才か5才だった。
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