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「3人」の裏側にあるモノ

先日のこのツイートへたくさんのご意見をくださりありがとうございました。
そのご意見のほとんどが「アメを3人と答える子どもに丸を与えるなんて信じられない」というものであり、そのご意見は私も理解できるのですが、僕がモヤモヤしていたところはその表面的な部分よりも少し奥側にありまして。そこをもう少し詳しく言語化することによって、「3人」の裏側にあるモノについて一緒に考えることができたらいいなと思っています。

まず、僕がモヤモヤしていたことを書き出します。
①助数詞の付け間違いや付け忘れはテストでは日常茶飯事
②助数詞は日常では曖昧に使われている
③そもそも文章題をする意味とは

①から説明していきます

①助数詞の付け間違いや付け忘れはテストでは日常茶飯事
現在3年生の担任をしています。子どもたちに算数ドリルをさせていると、文章題における助数詞の付け忘れや付け間違いをする子どもは一定数存在します。これは子どもの特性なのでしょうが、答えの値が計算で出せるとそこで安心してしまうのでしょう。そして、助数詞を付け忘れたり、付け間違えたりする。子どもにそのことを指摘をすれば、すぐに「あぁ」と気づけるレベルの些末なことです。一点の差で進学校が決まる入試の世界のテストではありません。子どもも教師も「次からは気をつけようね」という話です。

②助数詞は日常では曖昧に使われている
助数詞という言葉に馴染みがない方は多いでしょう。僕も適当に使っていました。中には「単位」という言葉と混同されている方も多数見受けられました。

助数詞・・・数を表す語に添えて、どんな種類の者の値かを示す接尾語
単位・・・・あるものの量を数値で表す際に基準となる、規定の量のこと

「アメを3人で良しとするなら3cmも3mも3kmも全部同じなんだろー!」というご意見を多数拝見しましたが、それは暴論なことはお分かりいただけますよね。
僕がしている話は「助数詞」であり「単位」ではありません。「3人」の「人」や「3個」の「個」は「助数詞」であり、「3cm、3m、3km」のそれは「単位」です。両者は明確に異なるモノであり、そこを混同されては話になりません。当然、単位は計算で求めるモノであり、計算の立式段階でも間違えてしまえば正しい値は出ません。よって単位間違いについてはもちろん丸をつけるはずもありません。以上のように、助数詞と単位を混同している人がこんなにもたくさんいることがわかります。

さらに、助数詞は日常ではとても曖昧に使われています。
アメの数の助数詞だって「3個」「3つ」「3粒」とありますし、幼い子どもが「アメを何個食べた?」と聞かれて、助数詞無しの「3!」と言っても通じてしまいます。それを目くじらを立てて指摘する大人はあまりいないでしょう。「3とは何だ!!けしからん、3個だ、3個!」なんて人もいるのかもしれませんが、コミュニケーションとしては成立することが多い以上、子どもの幼さとして優しく指摘だけして特に気にも止めない人も多いのではないでしょうか。

このように助数詞は日常生活ではとても曖昧に使われていることが多いです。たんすを「棹」、山を「座」と数える人も昔に比べたら随分少なくなったことでしょう。厳密に正確に助数詞を扱えている人はもう随分少ないのでしょうね。

しかし、テストではどうでしょうか。「個」以外は認めないという意見もまた多数ありました。他には「意味が通じればいい」というものもありました。これについては、ある方が「採点基準の揺らぎ」と表現されていて納得しました。基準が非常に恣意的なんですよね。僕が「3人」で丸をしたことも恣意的ですが。

③そもそも文章題をする意味とは
文章題はどうしてあるのでしょうか。計算問題だけでもいい気がしませんか?
僕の予想では、以下の3点が考えられます。


A:算数を「生活に活用できているか」を見るために生活場面を文章題にしている
B:児童の「思考力」を見るため
C:計算問題では間違いが起こりにくいので正答率が低くなりがちな文章題を設定して児童間で点数の差をつけるため


Aについては、小学校の算数は「生活に活用できているか」という側面を非常に大事にしていることが随所に見受けられることから、文章題を設定し生活場面に関する文章題を出すことで「生活に活用できているか」という力を見るためにあるという考えです。
この視点で考えたときにアメの数を「3人」と答えた子は「生活に活用できていない」と判断できるでしょうか。おそらく、12÷4が解けている以上、「3人」と答えた子どもは「3個」のアメを4人に等しく分けることはできるでしょう。だって、そこにいるのは4人の人なんだから。「3人」の「人」は「個」の間違いだったんだな、と自ら気づけるはずです。それが気づけないのは、これが具体的な生活場面ではない、ただの文章だからです。それをもって、子どもに「生活に活用できていない」と断じていいのでしょうか。
ペーパーテストで測れる力は子どもの持っている力のほんの一部分です。ましてや、今の時代の評価はテストの点数で全て評価する「総括的評価」では無く、子どもの学び全体をみとって評価をする「形成的評価」です。紙のテストは数ある評価材料のうちの一つに過ぎません。紙の上で現れた事象の裏側まで想像する力は、これからの教員には必要なのではないでしょうか。

Bについても考えてみましょう。児童の思考力とは一体何なのでしょうか。「3人」と答えた子は「思考力」が無くて、「3個」と答えた子は思考力があるのでしょうか。そうであるのならば、思考力とは「助数詞を正しく付けられる力」にも見えてきます。そんなに狭い意味で思考力を使っている人がいるとは思えませんが。
文章題を想起して場面を浮かべて立式をする。それは確かに思考力と呼べそうですが、「3個」と答えた子ども全員が果たして、そんな思考を経て「3個」にたどり着いたのでしょうか。
おそらく12と4という数字を見つけて、大きい方を左に書いて、小さい方を右に書いて、間に÷を書いて、4の段で12になるかける数は3だから、3に「何個ですか?」の「個」を付けて・・・答えは「3個!」なんて考えた子がいないとも言い切れません。
つまり、何が言いたいのかというと、児童の思考力なんて一つのペーパーテストで測ることなんてできない。だから、我々は「問題が解けた」という事実を持って、思考力があると評価したらいいし、その程度のことしか測れないことを知るべきなのです。そして「3人」という子どももまた文章題から「3」までたどり着けている事実は忘れてはいけません。

Cはまさに今回の事例を引き起こしている主要因とも言えます。計算問題は正答率が高いです。しかし、それだけでは全員が100点になってしまい「差」がつかない。すると、評価の材料としては使いにくい。だから「差」をつけよう。無答率も高くなりがちで、助数詞の付け間違いも起こしやすい、そんな文章題を設定しよう。そんな悪意をヒシヒシと感じる僕は随分ひねくれていますね。

ほろ酔いで、しかも勢いでここまで書いたので、読みにくくてすみません。

僕のモヤモヤを少しでも共有できたらいいなと思います。

おわり