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名著『街場の教育論』を読む②

前回の記事はこちらをご覧ください。

今回は第2講「教育はビジネスではない」の内容を考えていきましょう。
これは、内田先生の教育論ではお馴染みの論ではありますが、まだまだビジネスマインドに染まった教育者が多い印象ですので、何度でも啓発していかないといけないなと感じます。

内田先生のご著書である『下流志向』にも、「教育とビジネス」については詳しく述べられていますので、今回の記事で興味を持った方は、そちらも是非、お読みください。

さて、私たちの暮らしている社会は「資本主義社会」であり「新自由主義的な考え」が蔓延っています。だから「社会はあまねく市場に埋め尽くされている」という語に強い信憑性が伴ってしまいます。しかし、実際はそうではないのですね。

市場が生まれるずっと前から教育は存在していますし、なんなら教育に市場は関与すべきではないという論もあります。それは、経済学者である宇沢弘文が述べた「社会的共通資本」という考え方です。

社会的共通資本という考えによると、市場は変化が激しく、また「利益追求」のためには犠牲も厭わないという点からも、人々の生存に必要不可欠なものは「市場ではなく専門家による管理が適切である」と、そう述べているのです。

これには納得できる人も多いでしょう。
例えば、学校教育を「利益」というモノサシ<だけ>で考えてしまえば、離島の超小規模校はすぐに廃校になるでしょう。子どもの数よりも教職員の数が多いような学校もありますからね。でも、これが「適切な管理」とは誰も言えませんね。離島の子どもたちにも「学校へ通う権利」はあります。
同じように、高校の学区を撤廃して競争を煽り、定員割れを起こした高校の統廃合を進める大阪の方針だって、おかしいことはすぐにわかります。
これらのことだけでも、「教育はビジネスではない」ということはわかると思います。

一方で、教育を「市場が活性化するための人材育成の場」だと考えているビジネスマンはたくさんいます。先に使った「人材」という言葉が、なんともビジネスマインドだなと感じますね。
子どもたちは「材料」じゃないんですよ。原料である子どもたちを加工して、市場を活性化させるための製品として育成すると考えている人が、子どもたちを「人材」と呼ぶ人たちです。教育者としては、使うことを自省したい言葉です。

GIGAスクール構想が典型ですね。「これからはパソコンぐらい使えないと役に立たない」という経済界の思惑に沿って、教育実践を規定してしまうことに、少しくらい虚しさを感じて欲しいものです。

さて、話を戻します。
『街場の教育論』の第2講には、教育ついて考えさせられる言葉が登場します。

文科省も要らない。教育委員会も要らない。親も要らない。
むろん、地域社会も教育の必要条件ではありません。側面からの支援者としてなら有用な場合もあるでしょうが、産業革命期のイギリスの産業資本家のようなものであれば、いない方がはるかにましです。
メディアも要らない。
こう言うとメディアで教育専門の記事を書いている人たちはご不満でしょうが、学校がなくなって、教育評論家たちだけが残っている世界といのがありえない以上、メディアも要らない。
こうやって消去法で消してゆくと、最後に残るのは「教師と子ども」だけになります。これだけは消去することができません。教師のいない教育も、子どものいない教育も、どちらもありえない。それ以外のものはすべてなくても教育は成立します。

『街場の教育論』 内田樹著 ミシマ社 2008 p38、39

この文章は、過去に何度も読み返し、いつも悩んだ時に頭に浮かぶフレーズです。この文章は「教育の本質」を思い出させてくれるのです。

GIGAスクール構想は教育の本質ではありません。使いたい人は使えばいいですが、それがなくても教育は機能します。
教育評論家だって必要ない。彼らは現場へ厳しい言葉は吐きますが、結局、教育に必要不可欠ではないのです。いなくても、教育は十分に機能するでしょう。

大切なのは、「教師と子ども」だけなのです。そこを履き違えてしまうと、教育は歪んできてしまいます。
歪みのない「教育の本質」とは何なのでしょうか。それについても、内田先生は述べています。

それは教育の本質が「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くことだからです。

同書 p40

子どもたちは、まだ「何とも繋がっていない」のです。それを「繋ぐ人」こそが教師なのです(これについても別の章で内田先生は論じています)。そして、子どもたちと「何を繋ぐ」のかは、子どもたちの目の前にいる教師に決定権があるのです。

そして、それは「お金を稼ぐ」とか「より高い学歴を獲得する」とか、日常(「ここ」と内田先生は表現されています)を支配している新自由市場主義的価値観であってはならないのです。そんなものは、学校の外側に溢れています。教室の中にいる「教師と子どもだけ」だからこそ、教えられるそんな「教育」について、教師は真摯に考え続けないといけません。

教育の場だけが、教師と子どもが顔と顔を向き合わせている場面だけが、「ここ」の支配を免れた「逃れの街」たりうると私は思います。

同書 p42

あなたの教室では、「この世は所詮、金である」のような「ここ」の言葉で、教育が営まれていませんか?