めがね旦那

中堅小学校教諭 単著は6冊ほど 内田樹先生公認伝道師を拝命しております きのくに子ども…

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中堅小学校教諭 単著は6冊ほど 内田樹先生公認伝道師を拝命しております きのくに子どもの村学園卒業生

マガジン

  • 日本の教育史〜自由と平等〜

    教育史を概観してみることで、私たちの「当たり前」の形成過程も見えてくるのではないかと期待します。

  • 「主体的」について考える

    「主体的」とは何を意味するのか。 学校現場では盛んに使われる「主体的」について考察していきます。

  • 『ケーキの切れない非行少年たち』を考察する。

    話題一冊ですが、その内容には疑問点も多い気がします。

  • 教育と学習

    新作の本の原稿をまとめていきます。 書籍化が決まれば公開停止するかもしれません!

  • 道徳と倫理

    道徳と倫理について考えてます

最近の記事

  • 固定された記事

教育的関係における一考察〜内田樹の議論を参照しながら〜

はじめに 本稿の目的は、神戸女学院の名誉教授であり、現在は武道と哲学のための学塾・凱風館の館長である内田樹(1950-)の教育観を整理することで、その独自の教育哲学を考察することである。  内田の教育哲学は、自身が30年に渡り大学で教鞭を取ったことや、合気道の師範としての経験から精錬されていき、それは内田の数多くの著書の各所で展開されている。  その内容としては言語教育から宗教教育まで多岐にわたるが、今回の論考では主に内田による「教育の定義」と、「教育の好ましくない姿」とし

    • 教育勅語についての「まとめ」

      山口輝臣/福家崇洋編 『思想史講義【明治編Ⅱ】』 ちくま新書 の第二講「教育勅語」をまとめました。 現在でも主に右翼政治家などから「教育勅語一部容認論」がでてきますが、その成立過程についてはあまり知られていません。 一緒に勉強していきましょう。 ・教育勅語=教育ニ関スル勅語 大日本帝国憲法 施行の1890年10月30日に天皇より首相と文相に授けられる 日本国憲法   施行の1948年に排除ないし失効確認(衆参両院にて)  <約58年間、教育勅語は効果を有していた。

      • 愛着障害と、現象学の相互主観性理論についての研究ノート

        大塚類著 『施設で暮らす子どもたちの成長:他者と共に生きることへの現象学的まなざし』の序章と第1章の内容を要約しました。 本書は、著者の博士論文を基にしています。児童養護施設における子どもの在り方を「現象学」という視点から研究した一冊です(現在は絶版)。 講義のために要約したのですが、せっかく10時間くらいかけてまとめたので、こちらにも公開しておきますが、初見だとよくわからないかもしれません。講義では、文献購読をするので、全員が一読しているという前提です。 序章 本書の課

        • 教育は「もぐらたたき」でいいのか

          教育が「もぐらたたき」になっているということを危惧している。しかし、これでは読者諸氏には伝わらないと思うので、これから色々な話をしながら、問題意識を共有していけたらと思う。 教育学が生まれて200年が経った。 これは、まあ諸説あるがヘルバルトあたりを教育学の祖として考えた場合には妥当な年数になるだろう。 もちろんこれはヘルバルトではなく、ルソーでもコメニウスでも構わない。 コメニウスは、人を「神の似姿」にするために「すべての人に、この世界のすべてを教える」という使命感のも

        • 固定された記事

        教育的関係における一考察〜内田樹の議論を参照しながら〜

        マガジン

        • 日本の教育史〜自由と平等〜
          15本
        • 「主体的」について考える
          6本
        • 『ケーキの切れない非行少年たち』を考察する。
          4本
        • 教育と学習
          7本
        • 道徳と倫理
          15本
        • 息苦しさの正体〜新自由主義的教育政策の弊害〜
          19本

        記事

          児童理解という暴力、そして、理解を諦めない倫理

          今回は「児童理解」という言葉について考えてみたいと思います。この言葉は学校現場では頻繁に使われる言葉です。しかし、「児童を理解する」ということは一体、どういうことなのでしょうか。何を持って「児童を理解した」と言えるのでしょうか。そんなことを考えてみたいと思います。 まずは理解についての興味深い見解から見ていきましょう。 「お前の言いたいことは、もうわかった」というのは「理解」の対極にあると思想家である内田樹は以下のように述べています。 ここからわかることは、「わかった」と

          児童理解という暴力、そして、理解を諦めない倫理

          教育学における「規範欠如」問題に関する一考察

          要旨 本論考では、まず教育学における「規範欠如」について論じる。日本における近代公教育が始まった約150年の間に、教育に対する社会のまなざしは変化してきた。それに伴い、学校教育に求められるものも変化してきたのである。 明治初期は近代国家における「国民」の育成が喫緊の課題であり、戦前までは国家主義イデオロギーを扶植するための装置にあり、昭和の中頃までは学歴社会を高く上昇していくための場所だったのだろう。もちろん、これらは時代ごとに明確に区分できるものではない。しかし、学校

          教育学における「規範欠如」問題に関する一考察

          規範が欠如した教育の問題点

          教育学には規範が欠如しているという話をしようと思う。 これは言い換えると「何のために教育をしているのか」という問いに対して、教育学は答えることができていない、という話である。 教育という営みは「方向づけ」である。それは、教師が子どもたちに「教える」という点からも明らかであろう。そして、教育が「方向づけ」である以上「どの方向に進んでいくのか」というのは死活的に重要な問題でもある。公教育という以上、みんなで揃って崖の方へ行ってしまうのは自滅への道である。 しかし、それができて

          規範が欠如した教育の問題点

          「民主主義の緩慢さ」は大切という話

          「民主主義の緩慢さは大切である」という議論を見た。 今、流行りの哲学者であるマルクス・ガブリエルの著書『世界史の針が巻き戻るとき』の中に出てきたのだ。 民主主義の「遅さ」に対して、独裁国家の場合は「早い」のだ。独裁国家の場合、議論をして納得ができない場合は議論を続ける必要はない。より強い者が弱いものを「抹消」したらいい。実際、中国やロシアでは権力者に楯突いた人たちは行方不明になってしまう。 民主主義はとにかく「遅い」のである。 裁判を例に取ろう。裁判がすぐに決着することは

          「民主主義の緩慢さ」は大切という話

          「学力向上」に焦点化された学校教育で誰が得をするのか

          学校教育は何を達成するための場所なのだろう。 こんな問いが私の頭には常に浮かんでいる。これは、最近の教育行政への違和感なのか。それとも、戦後復興から経済成長を経て「失われた◯十年」まで、実はずっと学校教育を支配してきた価値観だったのか。 「学校とは勉強をするところです」 小学生に聞いてみれば、ほとんどの子どもはこう答えるであろう。そして、これは子ども自身が考えた言説ではなく、その周囲にいる大人から「学校とは勉強をするところである」という価値観を植え付けられてきたからであろう

          「学力向上」に焦点化された学校教育で誰が得をするのか

          学校の先生の転職事情

          3月の残りわずかのこの時期、SNS上では「退職の報告」をする教員が出てくるのも春の風物詩となりつつあります。 一方は「心労」で退職を決断された先生たちがいます。 彼女・彼らは、その業務の負担から年度途中から心が折れてしまっていたにも関わらず「責任感」という最後の手綱だけで、3月まで戦い抜いた勇者たちです。年度途中で辞めてしまうことの意味をよくわかっているからこその勇姿に、私は本当に拍手を送りたい。 現在の学校現場には、この「責任感」だけで、何とか毎日学校に通えている先生がた

          学校の先生の転職事情

          学校教育を崩壊させる方法

          「学校教育を崩壊させる方法」なんてセンセーショナルなタイトルを付けてしまったから、ご期待の諸氏を満足させる内容を書かないといけなくなってしまった。こうやって自身でハードルを上げてしまうのは僕の生来の悪癖である。これがうまく機能することもあったが、同じくらい失敗したこともあったので、その判断はこれを読み終わった後の諸氏に任せることにしよう。 さて、学校教育を崩壊させることは容易い。 それは保護者が担任の先生について「あの先生は信用ならない」と子どもに言うだけである。本当にこれ

          学校教育を崩壊させる方法

          学校におけるホウレンソウについて

          今回の記事を書くきっかけは以下のツイートです。 これには賛否両論、たくさんの意見をいただきました。ただTwitterでのツイートの宿命として様々な解釈があったみたいで、それについては僕も反論をしたいなと思ったので、こうやって筆を取ることにしました。 まず、大前提として僕自身がまったく「報告・連絡・相談(ホウレンソウ)」をしないということではありません。そして、ホウレンソウに意味がないとも思っていない。例えば、責任の所在を個人から組織に移すという意味でホウレンソウは自衛の手

          学校におけるホウレンソウについて

          教師は「子ども」を見ているか

          「主体性が奪われた先生が主体的な子ども育てることは可能であろうか」 こんな命題が脳内に流れてきた。 もちろん「否!」と言いたいところであるが、文科省の教育政策を現場から眺めていると「それは可能であるし、できないのならば現場の能力が低いからだ(だから、より主体性を奪ってコントロールするしかない)」と考えているのでは無いかと疑いたくなってしまう。 学習指導要領というのがある。 教科書はこれを元にして作られており、授業時間数の規定や、学年ごとに指導するべき漢字なども載っている、

          教師は「子ども」を見ているか

          先生が「休みづらい」ことを考える

          学校の先生は休みづらいと言われている。 学校はカレンダー通りの勤務体系なので、土日祝は休みであるが、平日は基本的に毎日開いている。そして、朝は8時過ぎから子どもたちが登校してきて、(高学年であれば)午後4時過ぎまでは残っていることもある。これは教員の勤務時間のほとんどの時間に「子どもが学校にいる」という状態である。その中で、提出物の点検、会議、研修、保護者対応、事務仕事など諸々している先生は「有給休暇」を取得している暇がないのである。 あまり知られていないが、実は学校の先生

          先生が「休みづらい」ことを考える

          学力保障の闇

          「学力保障」という考え方があります。 学校が子どもたちに身につけさせるべきものは「学力」であるという考え方ですね。 1981年、アメリカのレーガン大統領は「危機に立つ国家」という報告書を出していますが、その内容には、国民の識字率の低下への危機意識が叫ばれていました。 報告書には「アメリカの成人の2300万人は日常の読み書き理解テストができない」や「17歳の多数が高度な知的スキルを持っておらず、40%は文章題から推論ができず、説得力のある文章も書けない」などが述べられています

          学力保障の闇

          とある教師の愚痴

          学校には数多くのステークホルダーが存在します。ステークホルダーとは「利害関係者」と訳される言葉ですが、ここでは「学校関係者」という意味で使わせてもらいます。学校のステークホルダーは、文部科学省、教育学者、教育委員会、地域住民、保護者、そして、子どもなどが挙げられるでしょう。最近では、「教育評論家」も増えてきた印象ですね。彼らも学校の「おかしさ」を告発することで利益を得ているわけですから、立派なステークホルダーです。 つまり、学校の先生をやる以上、上記で挙げたステークホルダー

          とある教師の愚痴