ヴィクトール・フランクル『虚無感について』

べてるの家の向谷地さんが言及していた、ヴィクトール・フランクル。
ナチスの強制収容所での体験を書いた『夜と霧』の著者だとは知っていたけれど、彼が心理学者で「ロゴセラピー」という独自の心理学を提唱し、「生きる意味」「虚しさ」について語っていたとは知らなかった。

『虚無感について』という著書を読んでみると、どうやら「虚しさ」を「実存的空虚」という言葉として表していることが分かった。
で、実存的空虚の感覚は人間的なもの・人間の条件であり、誇りにすべきものとすら語ってる。
決して恥ずかしいことでも、病的なものでもないよと指摘しているのよね。

人生にどんな意味も見出せないような若者に対して、少なくとも今すぐにではなくても、為されなければならないことは何か。若者は、実存的空虚と呼ばれる状態は神経症の症状ではないということに気づかされるべきです。実存的空虚の状態は、恥ずべきものではなく誇りにすべきものであり、人間が達成したものです。人間存在に固有の意味があることを当然だと思うことなく、いろいろなことを試し、冒険し、疑問を抱き、実存の意味という問題にチャレンジすることは、なによりも、若者の特権なのです。p207
この無意味さの感覚は、何かの病状なのではなく、人間的なもの、人間の内にあるもののなかで最も人間的なものとさえ言える。しかし、この感覚は人間的なものであって、決して病的なものではない。本質的に異なる二つのものーすなわち精神的苦悩と精神的病ーを混同してしまわないためには、人間的なものと病的なものをしっかり区別しなければならない。p112


「虚しさ」は人間らしさでもある、だから、避けられない苦悩とも言えるのかな。避けられない苦悩にこそ、その人にとっての大切な意味が見出されるってこと?
苦悩することで絶望するんじゃなく、苦悩の意味が疑われることで絶望が生まれる、という。

苦悩や罪や死といった人間存在の面でさえも、正しい態度でそれに向き合うならば、肯定的な面に変わりうるのである。言うまでもないが、避けることのできない苦悩のなかにおいてのみ、意味は見出されることができる。避けることのできる苦しみを受け入れても、それはヒロイズムではなくマゾヒズムの一種である。実のところ、避けることのできない苦悩は、人間の条件のなかに本来的に備わっている。p169
いかなる苦悩であろうと、苦悩それ自体によって患者が真に絶望することは決してない、と私は苦悩に対する敬意と共に言っておきたい。そうではなく、様々な状況において苦悩の意味が疑われることから絶望は生じる。もしそこに意味を見出すことができるならば、人間は喜んでその苦悩を引き受けるのである。p261

これって、べてるの家でよく言われている「苦労を取り戻す」ってところに通じるよね。人間に生まれたからには直面せざるをえない苦労を取り除かれてしまうことによって、生きる意味や感覚が失われてしまう。
「苦悩の意味が疑われることで絶望が生まれる」とはそういうことなのかもしれない。

「自分の苦労を取り戻す」とは、「自分の苦労が自分のものとなる」という経験であり、それは自分の人生を取り戻すことにほかならない。自分を取り戻してはじめて、人とつながることができる。
『技法以前―べてるの家のつくりかた』p38


*   *   *   *

ここからは思い切り妄想なんだけど。
思ったのは、虚しさがあったから、あれこれ発明されてきたんじゃないかなと。

宗教・神=生きるよすが・虚しさからの救い
神話・伝説=物語・
虚しさの合理化
貨幣=交換・コミュニケーション・つながり

神話・伝説、神・宗教、お金・貨幣、これらがいつどういう理由で誰が発明したか誰も知らないわけじゃん。ホモサピエンスの誕生とともにいつのまにか発明されてた。
実は虚しさを感じた人間が虚しいがゆえにこんなんあったらいいな〜と思って生まれてきたのかもな、だとしたらおもしろいなあと妄想したり。

虚しさは人が生き延びるためのエネルギーになりえるのでは。虚しさをベースにした人と人のつながりの発明によって、生きる意味を見出すこともできるのでは。

逆に、虚しさを恥ずかしいもの・病的なものと扱うことは、人間らしさを奪い、いたずらに空虚感を膨張させてしまいかねないと思ったんすよね。

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