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『君が生きる意味』 “自分が自分が”になればなるほど、自分が遠ざかるパラドクス

ナチスの強制収容所での体験を書いた『夜と霧』で知られるヴィクトール・フランクル。
彼が心理学者であり「ロゴセラピー」という独自の心理学を提唱し、「生きる意味」「虚しさ」について語っていたとは、つい最近まで知らなかったのよね。

入門書みたいなものがあればな〜と思って、見つけたのが松山淳さんの著書『君が生きる意味』(解説はフランクル研究で知られる諸富祥彦さん)。

この本のいいところは、フランクルの心理学を現代人向けに親しみやすいように「物語形式×ユーモア」の切り口で構成しているところ。
主人公の青年と小さなおじさんの対話から読み手自身が学んでいける内容になってる。

「生きることが虚しい・無意味でしかない」と投げやりになっていた僕にはすんげえ刺さる内容だったので、いっそのこと紹介してみちゃうぞ。

◎自分中心思考パターンからの脱却

個人的に一番響いたのは、自分中心思考パターンにハマると生きることが苦しくなりまっせ〜ということ。

おまえさん「自分が自分が」って「自分」にがんじがらめになっちゃってるかもよ。そうなるとキツいんすよね〜。まじでキチぃ〜。キツか〜。
だったらさ、そこから出てみると見える景色変わっかもしんねえぜ?みたいな。

◎生きづらい人は「自分」という言葉をよく使ってしまう

青年「ここのところ自分の人生、うまくいってないんです。虚しいというか、自分の人生に意味を感じられないというか、昔から自分があまり好きじゃないというのもありますし、このままの自分じゃダメだと思って、自分を変えたかったんです。」p59

(中略)
おじさん「あんだの思考は、自分自分なんだぁ。(…)そんなふうに自分を中心にしてこの世界を考える。それがあんだの思考の癖で、何かっていうと“自分が自分が”になる」p61

自分、自分、自分、、、発せられる言葉のなかに「自分」がやたらめったらと出てくる人。そういう人は「ボクの境地」になっていて、自分のことしか考えていない・見えていない。
言い換えれば、世界には自分しかいない状態。それほど極端に視野が狭くなってしまっている=生きる困難さが増している状況だってことに気づかされた。

オンラインカウンセリングのサービスを提供しているcotree。代表の櫻本さんも以前に同じようなことを言ってたなあ。

自分の解像度を上げることはとても大切だと思います。それと同時に、焦点が自分だけに向くことは生きづらさにも繋がってしまうんです。生きづらい人の言葉を解析すると「自分」という言葉が高い頻度で出てきます。


◎「自分が自分が」になればなるほど、人生が虚しくなる

僕自身よくこう思ってた。
「なぜ自分がこんな目に???」
「どうしてボクだけが嫌な思いをしなくちゃいけないんだ???」
不快なこと・理不尽な出来事に遭遇すると「自分」を連発して思いつめてしまっていた。自分を守り、自分の中に閉じていく。
もう傷つきたくないし、自分を大切にするってこのことだろって。

「なぜだ、なぜこんなことに。どうしてオラがこんな目にあうんだって。そう自分にベクトルを向けて、今を問いただす質問に囚われると、問いが刃となり生きる力を奪っていったんだぁ。すっとさ、最初は小さくて軽かった虚しさが、ますます大きく重くなっていった。自分に向けて問いを発することは、明らかに逆効果だったべさ。なぜ?」
(中略)
「なぜなら、答えなどないからだべ」p167
「人生は答えてくれない。答えをくれない。すっとさ、この世界に意味は無いと思えてますます虚しくなる。それは、自分を中心にして人生から答えを与えてもらおうとする思考パターンだべな。なりたい自分も夢を実現したい自分も、人生から与えられることを期待する人生観だっちゃ。p69

でも、どうやらそれは逆効果だったようで。
「自分が自分が」になればなるほど、実際に、人生が虚しくなっていたんすよね。


◎我を忘れるとき、人は高いパフォーマンスを発揮する

逆に、人間は「我を忘れて」無我夢中で行動するとき高いパフォーマンスを発揮するんだそうで。この状態を「自己超越」と呼ぶんだって。

「私が私が、ではなく、私を忘れて誰かのために何ができるかを考える。そうして自己超越する時、ヒト族は高いパフォーマンスを発揮するっちゃ。」p140

つまり、こういうことだと解釈してみたのよ。
行動しない・行動できない=自己執着=ぼくの境地
“行動する・行動できる=自己超越=無我の境地”

「自分が自分が」って自分にハマってるときにツライのが、行動に移せなくなってしまうことなんだよね。自分を閉じているから、うかつにアクションを起こせなくなる。やる前からあれこれ考えすぎてしまったり。

じゃあ行動できてるときって、自分のことを全く考えないわけじゃないけど、ふと信念に従ったときだったり、ついつい〜、とか、目の前に困ってる人がいたらから〜であったりすることが少なくないぞと。


我忘れる、ゆえに我あり?

で、読み終えてしばらくして思ったのは「自分」とか「意味」とか「幸せ」とか、こだわったり求めすぎているときって、むしろ遠ざかってしまってる気がするな〜と。
逆に、考えすぎるのはほどほどにして、我を忘れてなにかに没頭しているときに、ふと、そばにあることに気づく。結果的にこんなところにあったやんみたいな?
なんかそういうものなんかなあという感想でした。

まあ、落ち着いていこ〜〜〜

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