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マンションの3階にある海辺

二〇一七年十一月二十五日土曜日

晴れ

relight committeeユミさんのblogを読み、宏子さんの言葉"これからどんなコミュニティと繋がってゆきたいか"のことをぼんやりと思う。

”わたしが繋がってゆきたいコミュニティとは。

喋りたいひととは。”

場所をひらく、すみびらきということをずっとぼんやりと考えてきた、そういえば。まどはあいていますよ、どうぞお入りください、はいりたいひとは、と。

それは誰にでもひらいているのだろうか、と思うと「うーん」となる。わたしはどんなひととも上手にお喋りできるのか自信はなく、大人数ののみかいなんて言ったら端っこで眺めてしまったりする。「ああ、喋れるひとだ。」「あ、伝わらないひとだ。」とすっと分けてしまうところがある。それは感覚的なものなのだけれど、言葉にするとしたらどんな違いなのだろうか。

たとえば、小学生四年生くらいのおんなのこの集団が帰宅しているところをぼんやりと眺める。そこで目にとまるのは、輪のまんなかにいるひとでもなく、そんな輪をすっ飛ばして駆けてゆくひとでもなく、どちらにいたらいいのだろうと間にいる集団にいるようにみせかけているひとだ。ほんとうはすっ飛ばして駆けてゆくひとについてゆきたいけれどなにかがそうさせなくて、でも集団のそんな話もたのしくないという様子でみんなでいるけれどひとりでいるひと。わたしもたぶんそんなところにいたことがあるから気づいてしまう。

「大学のとき、のみかいがあるといつもひとりでいるひとの隣にさっと座って喋っていたよね。」大学時代からの友人あいこちゃんにふっと言われてなんだかびっくりしたけれどそうだったのかな。

暮らす町にあるだいすきなあの場所も、ひとを無視せず、でも各々それぞれにいられるところが好きで、豊かだと感じている。

あとすこし異なるけれど、隣に座ったりしてsmall talkしてだいすきだと感じるひとは、たまたま海外に暮らしているひとばかりだった。そのひとたちはみんな風通しがよくて、”わたし”の意見やきもちを伝えてくれる。そしてとても前向きでひろくあたたかく軽やか。

ひとりのひとを見つけてしまう                   無視をすることされること が気になっている(そんなにやさしいわけではない)                             風通しのよいひろくあたたかなひとに憧れる


晩ごはんは、カブとカブの葉とベーコンのスパゲッティ。

とてもおいしくできた。こんなときはやっぱりのんさんはよく食べる。大蒜、カブ、ベーコンを炒めて、酒、味醂、醤油、豆乳をいれて一度火を止めて、スパゲッティ、バターをたっぷり加えて出来上がり。バターをさいごにというのがよかったみたい。

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1986年生まれ。扉も窓も開け放しています。いつでもどうぞ。

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