北里柴三郎について

こんにちは。映像作家で小説家の榊正宗です。

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昨日はとある企業にBlenderを教えに出張していました。

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↑出張のときの新幹線で食べるおやつの定番、シウマイ(ミニサイズ300円)です。

昨日は出張で1日外にいたので、日記の更新はお休みしました。

この日記ですが、絶対に毎日更新!で200日くらいやってましたが、以前、頭痛が酷くでお休みしてから、無理なときは休むようにしています。

ここ最近は、無理をしないをモットーに、適度に頑張っております!

さて、今日のテーマは「北里柴三郎について」です。

ちょっとまえに、2024年の紙幣改定で新5000円札になる津田梅子について調べましたが、新1000円札になるのが北里柴三郎です。

この人についても、あまり知らなかったので調べてみようと思います。

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🔳北里柴三郎について

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北里 柴三郎は、日本の医学者・細菌学者・教育者・実業家です。「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献しました。

後に医学者となる柴三郎ですが、子供の頃は、医者になるつもりは無かったそうです。どちらかといえば、わんぱくで、将来は軍人になりたかったようです。

しかし、18歳の時に熊本医学校に入ります。ところが、ここでも、医学には興味はなく、将来兵学を身につけるためにオランダ語の勉強だけしていたそうです。この語学力が、後に医学者となる柴三郎にとって、大きな糧になったようです。

オランダ語だけが異様に得意な柴三郎に、オランダの軍医だったマンスフェルトは興味を持ったそうです。そして、ペストで多くの人が死んでいることを柴三郎に伝え、医学の道を志すように伝えました。しかし、まだ本人は本気で医学者になる気はなかったようです。

21歳になった柴三郎は東京医学校(今の東京大学医学部)に入学します。

この頃、日本は海外から入ってきたコレラで多くの人が亡くなっていました。柴三郎の兄弟も犠牲になったようです。

この経験から、柴三郎はやっと医学の道を本格的に歩み始めます。

東京医学校を卒業後、柴三郎は、内務省衛生局(現在の厚生労働省)で研究者として働きました。

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🔳ドイツに留学

32歳になった柴三郎は、6年間ドイツに留学します。そこで、ローベルト・コッホに出会います。

その中で破傷風という病気に取り組むことになりました。

柴三郎は、破傷風菌が出す毒素を少しずつ動物に注射すると毒への耐性ができて、大量の毒素を注射しても病気にならないことをつきとめます。この「血清療法」と言う破傷風の治療法を発見したことで、柴三郎は世界的な学者となりました。

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🔳脚気菌論争

1880年頃、日本の医学者である緒方正規、オランダの医学者であるペーケルハーリングなどが、脚気菌を発見したという発表をしていました。

しかし、柴三郎は、緒方らが発見したものは、脚気菌ではなく、ブドウ状球菌の見間違いだったと主張し、緒方らと対立してしまいます。

もちろん、脚気は細菌由来の病気ではなく栄養失調が原因なので、柴三郎が正しかったわけですが、当時はそんなことはまだ分かっていません。なので、権威のある緒方正規を否定したことで、柴三郎は医学界での立場を悪くしてしまったそうです。

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🔳ノーベル賞を逃がす

1890年(明治23年)に、柴三郎は血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。これが、ノーベル賞にノミネートされ、もう少しで受賞というところまで来たそうです。

しかし、実際に受賞したのは、連名だったベーリングでした。柴三郎が受賞出来なかった理由は、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたことに加えて、当時は共同受賞などの考えが無かったためだと言われています。(日本人に対する差別意識という説もありますが、現在では証拠がないとされています)

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🔳帰国後、福沢諭吉の支援を受ける

39歳になってドイツから帰国した柴三郎は、脚気菌論争を理由に、医学界から排除され孤立無援となってしまっていました。

そんな、柴三郎を支援したのが、福沢諭吉です。

福沢諭吉の全面協力、多大な資金援助により、1892年10月、北里柴三郎の為の「私立伝染病研究所」を芝公園内に設立しました。

指導は非常に厳しかったようで、弟子たちからは「ドンネル(ドイツ語で雷)先生」と呼ばれたそうです。

自分の学校をつくって、指導が厳しいというところは、津田梅子と似ていますね。当時の日本では、そのくらいの気概がないと駄目だったのかもしれませんね。

門下生には黄熱病の研究で有名な野口英世もいたそうです。教育の分野にも尽力し、慶應義塾大学の医学科創設に関わり、初代医学科長に就任しています。

そして、1931年に脳溢血により生涯を終えました。1962年に研究所の創設50周年を記念して北里大学が建学されています。

今日は、「北里柴三郎について」調べてみました。もしお役に立てましたらポチッと💗マークお願いします!普通の日記という地味なタイトルのマガジンですが、知的好奇心を刺激するテーマで、毎日更新していますので、過去ログもぜひ御覧ください。

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