我殺す、ゆえに我あり (4/4)

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一九九五年~。龍一の記憶

 この家には、俺が生まれた時から爺さんと婆さんが居た。
 俺は阪神淡路大震災の半年後、あるいは地下鉄サリン事件の四か月後に生まれた。
 初めて目を開けた時、病院か家の明るい天井の光が差し込んできた記憶がぼんやりとある。家族だろうか、数人が俺の周りを囲んでいて、笑っていた。俺の誕生を祝福しているようだった。
 俺は家族に褒められ持て囃され育った。
「龍一、おむつ変えたよ」
「龍一、ご飯できたよ。美味しいか、よかったよかった」
「龍一が初めて喋った!」
「そんな難しい言葉知ってるんか」
「この子、読み書きも計算もできるで!」
 皆手を叩いて喜んだ。皆笑顔だった。
「龍一は賢いな」
「はい、これ誕生日プレゼント。龍一の大好きなおもちゃやで」
「龍一は可愛いな、よく笑う子や」
「記念写真撮るよ。皆笑って。はい、チーズ」
 俺は何も不満が無く、この世で最も幸せな人間だと思っていた──。

 ある日。幼稚園で友達と喧嘩になった。
「リュウ君、ケン君を叩いちゃ駄目でしょ?」先生は俺を叱った。
「違う! ケンの方から蹴ってきた!」
「それでも叩いちゃ駄目」
「でも、『やられたらやり返せ』って言われたから」
「誰に?」
「お爺ちゃん」
 先生は言葉を失い、俺に背を向け、ケンを泣き止まることに切り替えた。
 なんで……? お爺ちゃんの言う通りにしたのに……。

 土曜日。父さんは何か小さな機械を弄っている。
「お父さん何してんの?」
「ゲーム。これはゲームボーイって言うんや。ちょっと見とき」
 父さんがボタンをカチカチやると画面のキャラクターが動く。よく見るとそれは小さい点の集まりでできている。
「僕にもやらせて!」
 父さんはすんなりと俺にゲームボーイを渡してくれた。両手にフィットする機体、ボタンの感触、ピコピコ鳴る電子音、全てが心地良い。
 父さんのやっていた真似をする。ダッシュ、ジャンプ、攻撃。しかし、穴に落ちたり敵に当たったりしてやられてしまう。やられる毎に地形や敵の特徴を把握していき、一つのステージを突破できた。
「やったー!」
「上手いな、龍一」父さんは褒めてくれた。
 あっという間に俺はゲームの虜になっていた。
 ゲームのおかげで、友達もできた。ゲームの話をしていると、自然と人が寄ってきた。友達の家でゲームをして遊ぶこともよくあった。

 俺の家に友達を何人か連れてきた時のこと。俺たちはお菓子をほおばり、お茶をガブガブ飲み、ゲームで対戦をして夕方くらいまで騒いだ。
奥の茶の間で、爺さんはカンカンに怒っていた。
友達が帰ってから、爺さんにきつく言われた。俺の横には母さんもいた。
「なんや、あのガキらは。やかましい! 家が散らかるから、もう二度とウチに入れるな! 分かったな」
 爺さんは物凄い剣幕で、俺はただ従うしかなかった。
 翌日の学校で、俺は友達に説明した。
「ごめん。俺の家、友達入れたらあかんって。お爺ちゃんに言われた」
「お爺ちゃん? お前、お爺ちゃんと住んでんのか」
「え、そうやけど……。お前んとこはちゃうんか」
「いやだって、お爺ちゃんはお爺ちゃんの家に住んでるし。なぁ?」
 お爺ちゃんの家? なんだそれ。
「俺も、お爺ちゃんお婆ちゃんとは別々に暮らしてる。正月とかお盆にはお爺ちゃんの家行くけど」
「なんでそんなことしてんの?」俺は純粋に質問した。
「なんでって。考えたこともないわ。生まれた時からずっとそうやし。お前んとこが変わってるんちゃうか」
 そうなんだ。俺の家って、変わってるんだ。変なんだ──。
 俺の家で友達と遊んだのはその一日きりだった。

 晩ごはんの時間。食卓を囲んで皆何か話している。
「この子やっぱり、頭の出来が普通とちゃうと思うんやわ」
「ほんまになぁ。こりゃあ、お爺ちゃんのカクセイ遺伝かもしれんな」
 カクセイ遺伝? 覚醒……? 俺は、人とは違うのかな。
「ワタクシリツに行かすか。龍一は将来立派になるで」
 ワタクシリツ……?
 それから俺は母さんと、あちこちの塾を見学しに行った。
 母さんは男の人の説明を熱心に聞き、その隣で俺はゲームに熱中していた。
 何だかめんどくさそう。塾に入ったら、友達といる時間やゲームをする時間が減るのが嫌だと思っていた。
 俺は入塾テストを何度か受けさせられた。簡単過ぎて、ゲームよりも退屈だった。そんな俺を見て母さんは益々モチベーションが高まったらしい。
 結局、俺は某大手の塾に通うことになった。それまでやっていた英会話やスイミングの日も、塾の日になった。
 学校から家に帰ってきて、また塾に向かうのは腰が重かったけれど、杞憂だった。塾の先生は面白かった。芸人みたいなトークを繰り広げてくれる。勉強は苦じゃなかった。

 家族でドライブをした帰り道の話。
「ちょっと寄り道しよう。あそこで筍が取れるんや」
 竹林の中に入り、人気が完全になくなった所で車は停止した。
「ここらへんでええ。おい、軍手とスコップ」助手席の爺さんが運転席の父さんに言った。
 俺は最後列の右の席で、前席に両足を置いてゲームをしている。
「ほんまはあかんのやがな、これくらいバレへん。バレんかったらええんや」
 残った四人で車の中で待っていると、爺さんと父さんが帰ってきた。俺の後ろでドカドカっと音がした。収穫は大量だったらしい。
 そして筍は晩ごはんの食卓に並んだ。
「どうや? 美味いやろ」
 爺さんは我が物顔だ。人の山から取ってきたものなのに。
 皆美味しそうに食べていた。
 俺にとっても、確かに美味しかった。スーパーで売られている筍というよりは、料亭と遜色ない味だった。
 しかし、筍には所々アクが残っていた。喉がイガイガする。俺は、何か良くないものを食べている気がした。
 
  二〇二六年。美鶴からの手紙

 ご無沙汰しています。あんたが捕まってから、どこにいるんやろ思て調べ回ったけど、克亀くんが教えてくれました。公務員ともなるとそんなことも分かるのね。
 あの時、息子であるあんたに対して、最低最悪の言葉をかけてしまってごめんなさい。本当に、母親として良くなかったと思ってます。
 そもそも、あたしが「殺したい」なんて言わなければ、龍一はこんなことしなかったのだと思う。龍一は優しい子だから。あたしにも責任がある。ごめんな。
 克亀くんにも手紙を書くよう言ったけど、駄目みたい。あの人にあんたのことを話しても、何とも言わんのよね。自分の息子、長男やのにね。どう思ってんのかしら。

 二〇〇四年~。龍一の記憶

 学校ではよく馬鹿な事をしてはしゃいでいた。
「お前といると楽しいわ」並木たちは俺によくそう言ってくれた。
 楽しいって。俺はテレビの芸人の真似事をしてるだけなのに。これは本当の自分じゃない。演じてるだけなんだ。本当の自分は誰にも見てもらえない。
 家の中のことなんて誰にも話せないから。
「天ヶ崎。お前は将来、何かすごいことを成し遂げると俺は思うよ。並の人間には無い何かを持っている」
 ただ塾に行っているだけなのに。俺にはあまり実感が無かった。

 家でゲームをするのも好きだったが、外でもよく遊んだ。
 休みの日は父さんが俺と翔馬を車で公園に連れて行ってくれて、キャッチボール、サッカー、フリスビーなどをした。
 身体が融けそうなほど蒸し暑い夏。蝉も命を削ってたくさん鳴いている。
 夏休み。俺は塾の無い日は虫取り少年だった。毎日のように、半袖半ズボンで、伸縮可能な虫取り網とプラスチックの水槽と共に、自転車に乗って出かけた。口約束をしたわけでもないのに、朝早くから友達の家の前で集合して、あちこちを探検する。
 用水路のザリガニ。田んぼのカブトエビ。公園のバッタ、カマキリ、蝶。色んなものを捕まえた。
 人の敷地内にこっそり入ったこともある。カブトムシが樹液を吸っていた。やっとの思いで手にしたそれは、宝物のような光沢を放っていた。
 俺は生き物の中でも、特に昆虫に興味を持った。どれもこれもフォルムがかっこいい。生きることに特化し、一切無駄の無い生態が美しい。
 近所に昆虫ショップができたという噂を友達が聞きつけ、俺も一緒によく行った。日本では捕れない昆虫が多く陳列されている。角が三本のカブトムシや、黄金色のクワガタ。昆虫以外にも、色鮮やかな熱帯魚、カメレオン、ウーパールーパーなんかも居る。
 図鑑でしか見たことのない生き物が目の前で動いている。
 値札には小学生のお小遣いでは歯が立たない数字が書かれていたが、俺たちはそれらを眺めているだけで楽しかった。タダで観に行ける最高のテーマパークだった。どこに行っても似たようなものしかいない、動物園よりもわくわくした。
 時が過ぎるのも忘れる程眺めていて、中の生き物が時たまプラスチックの壁にコツンと当たる時に、俺は一つ思うことがあった。
 狭い箱の中でこいつらは何を思っているんだろう?

 俺はよく家で生き物を飼った。家族で山に出かけた日も、小魚やサワガニを捕まえて持って帰った。
 けれど、どれも一年と持たなかった。ちゃんと餌をやっているのにすぐに死んでしまう。
 頑張って捕ったカブトムシも、ある日学校から帰ってくると死んでいた。朝見た時は動いていたのに。昆虫ゼリーが半分以上残っている。
 もう死んじゃった。虫はすぐ死ぬなぁ。短い命だ。死ぬ前の日も何も言わない。ひっくり返った死体は動かなくなった電池切れの玩具みたいだ。
 普通のカブトムシ。あの店では千五百円で売られていたなぁ。二週間くらいで死んだから、一日百円か。
 カブトムシの命は一日百円。そう考えると、本当に玩具に見えてきた。あの店は、動く玩具屋だったのか……?
 腐葉土を被った茶色い抜け殻。もうこいつは生き返らない。
せっかく幼虫から成虫になったのに、この俺に捕まえられたばっかりに、虫篭の中に閉じ込められ、ただ餌を与えられ、何もせず死んだ。
 それを俺以外誰も見ていない。誰も悲しんでいない。
 この抜け殻は外に放っておくと、カラスなどにあっけなく食われるのだろう。
 数々の亡骸を見てきて、俺の疑問はより深くなった。
 生き物は何のために生きて、何のために死んでいくのだろう?
 俺が思ったことは人間に対しても言えることかもしれない。俺は、自分が何のために生きるのかということを割と頻繁に考えるようになった。
 学校でも友達に聞いてみた。
「自分がサラリーマンになったらとか、想像したことある? 四十年も満員電車に揺られて。俺はなりたくないねんなぁ。お前はなんか夢ある?」
「うーん。なりたいもんとか、何も無いわ」
「じゃあどうすんねん」
「生きるのめんどくなったら自分で死ぬわ」
 友達は、生きるということに真剣じゃなかった。

 生き物を捕まえるのは何だか可哀想と思えてきて、虫取り網も水槽も埃を被るガラクタになった。どうせ飼ってもまた死んでしまう。それを見るのも気が引けた。
 その分の時間はゲームに充てられた。ゲームは相変わらず俺の心を掴んで離さない。
 車の中、外でもずっとゲーム。ボタンをカチカチと押し、一つの画面を見続けている。
 それを見かねた爺さんは俺に注意した。
「ゲームばっかしてると目が悪くなるぞ。外の景色を見なさい」
 ゲームは悪、というのが世間の大人の感覚らしかったから、爺さんもかと思い、俺は聞き流していた。
 レストランでも、俺はゲームをしていた。爺さんは決してそれを見逃さない。
「龍一。下を向くのをやめなさい。もっと人と話すようにしなさい。人の目を見て、な」
 嫌だ。つまらない話をするより、ゲームの方が何倍も面白いんだ。
「またゲームか。ったく、お前らもそんなもん子どもに与えるな。ゲームなんてな、ペテン師が作っとる訳の分からんもんやねんから。そんなもんにハマると頭がおかしくなるぞ」
 ペテン師が、ゲームを作ってるだって? 違う。ゲームは素晴らしいものなんだ。こんなにも俺を楽しませてくれる。
 じゃあ、出来るもんならこれ以上に面白い話をしてみろよ。何も知らないくせにいい加減なこと言うな!
 俺は何も声には出さず、渋々ゲーム機の電源を切った。俺がランチを食べ終わった後も、爺さんはシェフを呼び出し、「ブロッコリーに火が通ってなくて硬い」とかクレームを言っていた。

  二〇二七年。美鶴からの手紙
 
 体調はどうですか。ごはんはどんなものを食べていますか。あんたが今どういう心境かわからんけど、気が向いたら返事を書いて欲しいな。
 ごはんで言うと、家に二人になってしまってからも、うっかり四人分の料理を作ってしまって、二日に分けて食べることもよくありました。二日目は、あたしらで龍一と翔馬の分を食べました。
 克亀くんと二人でご飯を食べている時、昔の話をよくします。
 ずっとあったものがなくなると、やっぱり寂しいよ。
 龍一。何か悩みとかあったら、溜め込まず書いてくれてええんやで。あたしはあんたのたった一人の母親やねんから。分かる? 無償の愛ってやつよ。

  二○○六年~。龍一の記憶

 俺に物心がつき、成長するにつれて、爺さんから笑顔が消えていったように思う。俺が可愛くなくなったのか、露骨に態度を変え出した。頻繁に怒る日があり、基本的に機嫌が悪かった。
 爺さんに叱られるのは俺だけじゃなかった。一番叱られていたのは父さんだ。
 爺さんはいつも父さんに怒っていた。爺さんが父さんを褒めているのを見たことが無かった。
 爺さんは、馬に跨って鞭打つ悪い大人みたいだった。まさに悪人面をしたカウボーイだ。バチンバチンと叩いて、自分の都合の良いように馬を動かす。馬には餌をやるだけで、撫でることは無い。馬はいつもしょんぼりとしていた。
 爺さんはいつからか、俺の中で完全に悪者になった。
 日曜日。家の外でトンカチやノコギリの音が聞こえる。木材で何か作っているらしい。玄関は開けっぱなしだ。
「違う違う。こんなんもできんのか。もうわしがやるから貸せ。ほんまに今まで何をしてきたんや。どうしようもない奴やな」
 爺さんの罵声が俺の耳にはしっかりと届いていた。父さんの方は何も言わず、反抗もしない。
 父さんが可哀想だ。俺はこんなお父さん見たくない。こっちまで辛くなってくる。爺さんなんか、消えてしまえ──。
 家の中では、あちこちに貼り紙が施された。黒いマジックで太い字が書かれている。
『この家はどうなっとる? 髪の毛、埃だらけで不潔。洗面所もトイレも、誰も見てへんとこで、一番年寄りのわしが掃除してんのや。情けない。ありがとうくらい言ったらどうや』
 いちいち目に入ってきて煩わしいが、剥がすとまた爺さんが怒るだろうから、ガムテープはそのままにしておいた。他の四人も俺と同じ思いだったようだ──。

 俺が茶の間で寛ぎながら推理物のアニメを見ていた時。一番風呂を上がった爺さんが、裸にタオルを巻いた姿でやって来た。婆さんがクローゼットから出した着替えを着ると爺さんは、「こんなもんやってるから人殺しが減らんのじゃ」とぼやいてテレビを消した。
 主人公がこれから推理を始めようという一番の見所だったのに。
「もっとまともなものを見なさい。ろくな大人にならんぞ。さぁ、ご飯食べよう」
 俺がゲームをしている時もそう。俺が面白いと思うものは、爺さんにとってまともじゃないものらしい。

 晩ごはんの時間では、爺さんの説教タイムがある。
「はい、テレビ消して。ちょっと話がある。克亀、日本のGDPは今いくらや」
「わかりません」父さんはボソッと答えた。
「そんなんもわからんのか。新聞を読めと言うとるやろう。わかりませんわかりませんって、お前は何を知ってるんや。こんだけ口酸っぱく言ってもあかんか」
 父さんは食べ終わった食器を重ねて、一刻も早くこの場を立ち去りたい意思を示した。
「けっ。どうにもならんでしかし。世の中金やっちゅうのに、金に対して無頓着でどうすんねん。克亀が株で大損こいたのをわしが一生懸命穴埋めしてるんや。
 なんでわしがこいつの尻拭いなんかせなあかんのや? もう働かんでもええ、年金暮らしのわしがな。毎日目を凝らしてパソコンの画面眺めて。もうやめろ言うたけどな、おそらくこいつはまだ借金しとるかもしれん」
 他の者は誰も何も言わない。爺さんの独壇場。
「克亀、そんなんじゃ子どもが真似するぞ。子どもがお前に似てきとる。頼むからこの家にこれ以上暗い人間は増やさんといてくれ。それに比べて隣の旦那はほんま男らしい人やわ。顔合わす度に、向こうから元気に挨拶してくれる。何とかして交換できんかな」
 俺は耐えきれず、茶碗を砕けそうな程テーブルに繰り返し叩きつけた。
「あああああ! なんでいつも、晩ごはんの時にお父さんを虐める! お爺ちゃん、嫌いだ! お爺ちゃんなんか、死んでしまえ!」
 咄嗟に出た言葉は、俺の心からの本音だったのだと思う。
「こら! 何てこと言うの!」母さんが俺を窘める。
「今なんと抜かした、この小僧は。おい、こいつを押し入れにでも閉じ込めておけ! 飯も食わすな! 龍一、お前は天ヶ崎家の恥、失敗作、出来損ないじゃ!」
 失敗作、出来損ない。俺は、生まれてこない方が良かったのかな。
「うわあああ!」
 俺は泣きながら我武者羅に逃げた。二階のベッドの布団に包まって隠れたが、あっさりと母さんに捲られ捕まった。
「ごめんね龍一」
 俺は母さんの目に訴えた。母さんは、俺の味方じゃないのか……?
「ごめんね。逆らえへんの。お爺ちゃんはここで一番偉いから……」
 俺は罰を受けた。最後に取っておいた好物の手羽先は食べず終いだった。
 暗く冷たい押し入れの中で、俺は熱を保ったままの憎しみの炎で暖を取った。
 俺は幸せだとずっと思っていたけれど、全然違った。
 爺さんはいつも、俺の楽しい世界に問答無用で踏み込んできて、俺の好きなものにケチをつける。

  二〇二八年。美鶴からの手紙

 お元気ですか。面会に行っても顔を見せてくれないから心配です。刑務官と少しお話したよ。龍一の様子も少し聞きました。
 子供の頃は全然そんなことなかったのに。いつからか、あんたはそうよね。自分の世界に閉じこもりがちっていうか。何があかんかったんやろ。あたしにはわからんわ。
 とにかく、どんなことがあっても家族はあんたの味方やから。世間があんたにどんな罵詈雑言を浴びせようとも、あたしが守ってあげる。あんただけやない。あたしも共に戦うわ。あたしはあんたの味方よ。死ぬまで、一生。そやから、あんたはあたしより先に死ぬんはやめてな、哀しいから。

  二○○七年~。龍一の記憶

 嫌な事は何故立て続けに起きるのだろう。それはまたしても晩ごはんの時だ。
 夕食前、テレビには占い師が映っていた。「人はなぜ生まれてくるか」というテロップが表示されている。俺が興味のあるテーマだ。
 若い女性タレントは「私たちは幸せになるために生まれてくるんだと思います」と言う。
 それに対して占い師は、「違う。人は死ぬために生まれてくるの」と突っぱねた。
「何を言っとるんやこのババァは」
 爺さんがリモコンのボタンを押し、テレビが消えて静かになった。
 それから性懲りもなく説教が展開された。内容はいつも、金、金、金。
 爺さんは父さんに質問攻めする。金利、日銀、為替。まだ俺にはよく分からない言葉が飛び交った。
「ああもうイライラする! 話にならんわ!」
 爺さんは突如として激怒し、小皿を父さんに向かって放り投げた。
「危ないなぁ」
 父さんは寸前のところで躱した。小皿は側のガラス戸にぶつかって落ちた。
 爺さんは立ち上がり、のっそのっそと父さんの所まで歩いていき、座っている父さんの顔面に右フックを食らわせた。茶の間では聞かないような鈍い音がした。
「狂ってるな」父さんはそれだけ言って茶の間を出ていった。
 父さんの背中は、すごく悲しそうだった。
「狂ってるのはお前の方じゃ」
 そのあと、隣に座っていた俺に向かって爺さんははっきりとこう言った。
「お前はあんな父親になるなよ」 
 母さんも婆さんも、翔馬も俯いていた。
 大好きな父さんを完膚なきまでにズタズタにされ、俺は何日も夜寝る前に泣いた。正直俺は、父さんにやり返してほしかった。よぼよぼのじじいに一発かましてほしかった。
 俺は人間が怖くなった。信じられなくなった。あの日目の当たりにしたのが、爺さんの本性なのだ。相手を信じても、どうせ最後には裏切られて終わり。
 家族はバラバラになった。父さんは夜中に帰宅するようになり、茶の間に姿を見せなくなった。母さんは度々ベッドで泣いていた。「幸せになりたい。どうしたらええの……」と言うのを、俺は何もできずに壁越しに聞いていた。
 俺は爺さんに反抗した。爺さんとはなるべく顔を合わせない。トイレのタイミングも見計らう。塾で遅くなった日の晩ごはんは勉強机で一人で食べるようにした。
 そういう経験を何度かして心に深く傷を負うとともに、俺は徐々に気づいてきた。この家の構造に。絶対権力者の爺さんが猛威を振るい、父さんが虐げられることでこの家は成り立っている。母さんも婆さんも逆らうことはできず見ているだけ。
 爺さんはお金という力を持っている。ご馳走、お小遣い、お年玉、生前贈与。機嫌を損ねるとお金が貰えなくなる。
 俺含む皆、常に顔色を窺っていた。爺さんはこの家を支配していた。俗に言う亭主関白。王様と召使いのような関係。俺らは、家族じゃないのか……?
 爺さんと同じ空間にいるのが嫌だった。俺は父さんと同じ空間にいたかった。会話なんて要らないから、傍にいて欲しかった。父さんの大きい体に守られていたかった。父さん、早く帰ってきてよ。俺たちを助けてよ。
 こんな家、嫌だった。よその皆は幸せそうだった。不幸なのは俺だけ。幸せそうな家庭を見るとムカムカしてくる。笑顔、笑い声が憎らしかった。
 テレビの『サザエさん』が羨ましかった。画面の中ではあんなに家族団欒としているのに。
 目の前の現実では、波平が圧倒的権力を持ち、マスオを虐めている。食卓を囲む他の者は俯いて黙々とご飯を食べている。
 爺さんはいつも、僕の大好きな父さんを甚振っていた。
 俺は茶の間のこの空間、この時間が物凄く嫌だった。家族で集まって晩ごはんを食べるのが毎日耐え難かった。息が詰まりそうで、苦しくて逃げ出したかった。
 父さんと爺さんは、水と油のような関係だった。お互いに折れず、反発し合い、混じり合うことはない。
 俺は二人を切り離すことが解決策だと考えていた。爺さんという油を別の所へ移動するのだ。この世とあの世の二つの容器があるとすれば、爺さんをあの世の容器へ移せばいい。そうすれば、この家は汚れも濁りもせず暮らしていける。それで我が家は平和になるはずだ。
 父さんは無口で何も言わなかったけれど、きっと父さんも俺と同じ思いに違いない。
 事あるごとに俺は爺さんに対する憎しみが募りに募り、充分殺意と言える域まで達していた。初めて人を殺したいと冗談抜きで思い、どうやって殺そうかと真剣に考え出した──。

 小学六年生。受験も佳境に入り、俺は勉強に追われ、他のことは頭の片隅に追いやられた。
 夜遅くまで塾に缶詰め。勉強漬けの日々。塾が俺の本拠地。学校はストレスを発散する場所で、家は単にご飯を食べて寝る場所。
 ゲームに耽る暇もなくなり、覚悟を決めて封印した。外で体を動かすことも減った。翔馬と遊ぶ時間も、言うまでもなく激減した。
 今俺がやるべきことは勉強だ。勉強机に「絶対合格」の貼り紙をして自分を鼓舞した。受験に勝てば世界が変わると希望を見出していた。いや、勉強に縋るしかなかったのかもしれない。
 真っ暗な夜。塾を出るといつも父さんが車で待っていてくれた。
 車中では別に何か言葉を交わすわけでもない。静まり返った夜道をスーっと通っている時、俺は落ち着くことができた。父さんの口数の少なさが逆に安心できた。
 それでも家に帰ると爺さんの存在がある。勉強机に向かっていても、爺さんの怒鳴り声が聞こえてくる。
「お父さんやめて!」母さんが爺さんに懇願する。
「美鶴、お前はどっちの味方や!」
 皿が割れる音もする。
 俺はとてもじゃないが勉強に身が入らず、トップの成績を維持することは叶わなかった。
 爺さん、邪魔だなぁ──。

 冬季特訓前の三者面談。
「あの、龍一は大丈夫なんでしょうか。勉強はちゃんとしてるみたいなんですが、家ではほとんど喋らないんです。家に居る時間もあまりないし心配で……」
 不安がる母さんに対し、算数の先生は穏やかに答えた。
「龍一君はしっかり授業を聞いて宿題もこなしていますよ。必ず、絶対に合格します。僕はそう信じています。お母さんも信じてあげてください」
 俺は先生の言うことを信じた。
 試験当日、かじかみそうな手をカイロで温めて臨んだ。俺は緊張に屈することなく、解答用紙を情熱で埋め尽くした。
 翌日、俺は母さんと二人で再び会場に行った。掲示板の周りに人だかりができていて騒がしい。
「あんた、受かってるわ!」母さんは泣いていた。
 本当に合格したのか……? 俺は目が悪くて遠くの番号を確認できなかったが、母さんの様子を見て把握した。俺は確かに長安に合格したんだ。
 その場で母さんに抱きしめられ、俺は温もりを感じた。
 良かった、喜んでくれた。第一志望に合格した嬉しさよりも、ヘマをせずに済んだという安心の方が大きかった。母さんが悲しむ顔はもう見たくなかったから。第二志望に落ちた時はどうなることかと思ったけど、失敗しなくて良かった。
 帰宅後も、俺は家族に胴上げされ、夜は盛大なご馳走が振る舞われた。この日ばかりは爺さんも喜んで褒めてくれた。
 俺は少し考えを改めようと思った。そうか、俺は勉強を頑張ればいいんだ。結果を出せば爺さんは機嫌が良くなる。わざわざ殺すなんて馬鹿なことは辞めておこう。

  二〇二九年。美鶴からの手紙

 最近寒いけど、あったかくしてますか。ストーブとかはあるのかな。
 あまり話していなかったけど、老人ホームもまだ通っています。お婆ちゃんまだ元気よ。あんたのことを最初話したら、涙を流して、凄く悲しんでた。
 それから会う度に、「龍一は元気か?」「龍一はどうしてる?」って聞いてくるの。あたしのことよりあんたのことを心配してんのよ。孫が可愛いんやね。
 お爺ちゃんもお婆ちゃんも、小さい頃からほんまにあんたを溺愛してたんやで。
 天国のお爺ちゃんはどうしてるかな。わたしも定期的に夢に出てきます。「もっとしゃんとせい」って、わたしが叱られる夢ね。

  二○○八年~。龍一の記憶

 中学生になり、変わると期待していた何かは訪れる気配すら無い。俺の人生は真っ直ぐ過去の延長線上で、分岐することは無かった。
 俺が頑張って手にした結果も、爺さんの怒りを鎮めるには及ばなかった。相変わらず父さんは怒られ続けているが、俺の方にも牙は剥かれた。
 晩ごはんの時以外にも、俺は爺さんと二人きりにされて説教をされた。勉強している最中も、「お爺ちゃんが呼んでるわ」と婆さんが言ってきて、俺の足は茶の間に向かう。
「龍一、呼ばれたらさっと来んかい。ちょっとそこへ座りなさい」
「龍一、もっと男らしくしろ。声が小さい。はきはきと喋れ。女が腐ったみたいな、お父さんの真似をするな。益々似てきてるぞ。
 男が女を引っ張っていかなあかん。『男女』『夫婦』と言うやろう? 『女男』『婦主』とは言わん。世の中、男が先なんや。総理大臣が女に務まるか? 女はどうしても舐められる。だから龍一、お前も男らしく。歩くときも胸を張って。総理大臣も胸張って歩いてるやろ。
 男は舐められたらあかんねん。自分を強く見せんと。第一印象が大事やで。卯建の上がらない男になるなよ。甲斐性のある大人になれ」
 前置きも間も長いので、終わって時計を見ると一時間を優に超えていることがざらにある。その割に要点は大したことがない。そこからまた机に向かい、勉強を再開するのは絶望すら感じた。無駄な時間を返して欲しい。説教が無ければ、その時間羽を伸ばすことができた。説教の度にストレスが蓄積していく──。
「昔わしがまだ働いてた頃、部下に使えん奴がおってな。ここに来る前何してたか聞いたら、そいつは東大出て就職が決まらず一年ブラブラしてたって言いよるんや。わしは呆れ果てて何も言えんかったよ。いいか龍一。東大卒でも落ちこぼれがおる。勉強だけできても使いもんにならんぞ。いくら勉強できても協調性が無いとあかん。人から逃げるな」
 爺さんはあろうことか勉強まで非難し始めた。
 頑張って勉強しても認めてもらえないという事実が発覚した。良い点数を取っても、爺さんが怒り続けるのを止められない。俺はもうやる気がなくなった。何のための勉強?
「龍一は、昔は笑顔を絶やさんかった。今のお前はあの頃とは別人のように顔が怖い。こんなん言いたないけど、人でも殺しそうな目をしている時がある。
 毎日鏡の前で笑顔の練習をしなさい。それと喋る練習もな。言葉は人間の武器なんやから。誰とでも会話出来るようにならんとな。根暗人間はあかんぞ。無口な男に誰が寄ってくるんじゃ? そんな奴は社会で上手くいかん」
 こんな家で、どう明るくなれっていうんだ。

 学校生活も、劇的な変化は無くがっかりした。ここには小学校の友達は一人もいない。既に同じ塾だった仲良しグループが形成されている状態で、俺は馴染めなかった。本当にあの入試を突破したのかと思う程幼稚な奴が多かった。その輪に入っていくのは俺の知能レベルも低下する気がした。
 何より、俺にはもう人と関わろうという前向きな意志は消失していた。気が付けば俺は、爺さんだけじゃなく、人間を避けるようになっていた。
 俺は自ら孤立の道を選んだ。小学校時代の俺はもう死んだんだ。
 決して誰とも喋らない。声を発さない。何か聞かれても頷くか首を振るかジェスチャーで答える。鬱陶しい場合は平気で無視する。人と言葉を交わすのも気持ち悪かった。
 そのような立ち回りをしても、俺は虐められることはなかった。下らない悪戯もされなかった。学力が経済力に比例するように、暴力性も経済力と相関関係があるのかもしれない。俺が受験に勝って良かったと思える数少ない理由の一つである。

 休憩時間などは退屈で、読書をするようになった。クラスで決め事などをする時も、ずっと本を広げて読んでいた。
 駅前の書店で何となく手に取ったのは、推理小説と呼ばれるものだった。人が人を殺す、犯罪をする話。初めてそれを読んだ時、ぞくぞくするほど興奮した。そこでしか得られないスリルと快楽があった。
 人間の本当の内面が文字で書かれている。人間は腹の中で何を考えているか実際には分からないけれど、小説にはそれが描写されている。その内に秘められた、どす黒い、ドロドロした、闇の部分を垣間見るのが好きだった。
 人が人を殺すのはどんな時だろう。どんな気持ちなんだろう。「殺したい」とか「死ね」という言葉はよく使われるけれど、実際に実行するのは訳が違う。
 俺も爺さんを殺したいという思いはあったが、何にも出来ていない。よっぽどの感情の蓄積がそこには要るのだと思う。人を殺す人のことがもっと知りたい。俺は現実の人間関係に嫌気がさし、推理小説にのめり込んでいった──。
「天ヶ崎くん、何読んでるの?」
 クラスメイトにブックカバーを勝手に剥がされる。
「『罪と罰』だって。難しそう。すごーい」
 ブックカバーを取られるのは俺の心の内側を覗かれるようで嫌だった。汚い足で、これ以上俺の所に踏み込まないでくれ──。
「今日は何読んでるの? 『人間失格』。太宰治って、いま国語でやってる『走れメロス』の著者かぁ。天ヶ崎くん、なんか怖い題名の本ばかり読んでるね」
 読書をしていると、本以外の情報も入ってくる。
「天ヶ崎くんって、ほんと喋らないよね。キモくない?」
「ねー。近づかないでおこう。ちょっと、いまチラッと見られたんだけど」
「気持ち悪ぅ。ほんと、何考えてるかわかんない」
「きっと聞こえたのよ。本を読みながら私たちの会話を盗み聞きしてるんだわ」
「きもーい」
「目を合わせちゃダメ。あっち行きましょ」
 人はだんだんと俺から距離を取り出した。俺にとっては思惑通りだったから、寂しくなんかなかった。

 中学生になったということで、俺は携帯電話を買ってもらえた。変化で言うとそれがあった。そこで俺は、この世にはもう一つ世界があることを知る。インターネットの存在だ。
 ネットは推理小説と似た匂いがした。掲示板では、誰かが顔も名前も隠して好き勝手言っている。人間の本質とも言えそうな、内にあるものを剥き出しにしていた。それを横から見ていると、俺は笑顔になれた。見てはいけないものを見ているような背徳感。
 老若男女、色んな人がいる。学校なんて狭い世界なんだ。閉じられた社会なんだ。インターネットは海のように、いや、海よりも広い。
 俺は海が好きだった。誰が動かしてる訳でもないのに、誰かが決めたような一定の間隔で、ザザーっと波が行ったり来たり。穴を掘っても、砂のお城を作っても、波が来ていずれ土は更地に元通り。
 そこに自然の神秘を感じる。海は生命の源。地球そのものだ。こここそが俺の居場所なんだ。俺は広大で自由なこの海で一生暮らしたいと思った。
 俺は自由を欲した。爺さんが支配する家庭。学校という狭苦しい場所。全てから逃げ出したかった。一番心が落ち着くのは一人の時間だ。きっと大人になって会社に入ったら、もっとしがらみが増えるんだろうな……。
 大人になりたくない。かといって現状も決して良くない。どうすれば、この道から脱却できるのだろう──。

 全校生徒が体育館に集められ、校長の話が始まった。
「ここは、社会の雑巾をつくる学校です。大人になったら社会の雑巾になって、世の中を綺麗に磨いてください──」
 俺は両手で耳を塞ぎたかった。はたまた、その場を逃げ出したかった。このお坊さんも、爺さんみたいなことを言う。
 生徒から金を巻き上げておいて、挙句の果てに洗脳だ。この学校は既に、完治不能なまでに毒されている。
 生徒たちは皆静かに聞き入っている。洗脳とは脳を洗うと書くが、こいつらは己の意志すら洗い流されて、アイデンティティーを失ってしまったのか? 脳味噌の中は空っぽか?
 気持ち悪い。宗教臭い。俺は自分の生きたいように生きるんだ。何色にも染まらないぞ。もう誰の言いなりにもならない。人の人生に指図するな。何様だ。人がこれから進む道に勝手にレールを敷くな。
 ヒヨコの雄雌を判断するみたいに、あれはあっち、これはこっち。ガワだけ見て分かった気になるな。どいつもこいつも、枠に当てはめようとするな。
「仏教とは、いかに生きるかであると同時に、いかに死ぬかでもあります。──」

  二〇三〇年。美鶴からの手紙

 体は大丈夫ですか。部屋を整理していたら、あんたと翔馬の作文や絵が出てきました。息子達の作品を見ていたら、掃除も手につかず時間が徒に過ぎていきます。
 二人とも、文才も画力もあって、あたしの中では一番です。どれもこれも、かけがえのない思い出、宝物です。残っていて本当に良かったなと思います。
 特にあんたの描いた織田信長は、掛け軸にしたいくらいほんまにようできてて、仏壇の側に、お爺ちゃんの遺影と並べて立て掛けてあります。

  二〇一一年~。龍一の記憶

 高校生になると、文化祭で模擬店や企画をクラス単位でやることになる。タコ焼き屋、クレープ屋、お化け屋敷、コント劇場。どれも下らないテンプレ。頭が良くても、奇想天外な発想には至らないんだな。ネットの方が断然面白い。
 俺は文化祭に限らず、球技大会や遠足など、学校のあらゆるイベントが嫌いだった。早く独りになって、ネットの世界を覗いていたい。
 文化祭の翌日、陽気なクラスメイトが珍しく俺に話しかけてきた。
「天ヶ崎くんのお母さんがウチらの教室に来てくれてたよ。お母さん、めっちゃ饒舌やね。……だめだ、やっぱり喋らない」
「もうほっといてやれよ。読書の邪魔になるだろ」
「うん……。なんか、天ヶ崎くんからは闇のオーラみたいなのを感じる。とてつもない悲しみを背負っているような……」
「なに霊媒師みたいなこと言ってんだ。天ヶ崎がこうなのは元からだろ。行こうぜ」
 俺は丁度その時、犯人が人を殺すシーンを読んでいた。何かの魔が差せば、俺は二人に対して手が出ていたかもしれない──。

「先生、勉強って何のためにするんですか? こんなの覚えて、将来何の役に立つか分かりません」もはやありふれた疑問を生徒は投げかけた。
「やってる内容そのものは関係ない。人に言われた、決められたことをとにかくこなす。その能力こそが社会で活きてくるんだ」
 三十近くの若い男教師はそう言った。
 一周回って滑稽だった。ある意味開き直っている。教師がそれを言うのか。
 教師なんて、研究者になれなかった、中途半端に賢い連中の集まりだろ。社会にも出たことのない大人が、未成年に対して威張り散らしているんだ。偉そうに東大の問題を解説したりしてるけど、あんたは東大卒じゃないだろう?

 高校二年生の学年集会。強面の学年主任が話をした。
「この期に及んで、未だに勉強に集中していない生徒がいる。そんなことでは京安としての名が廃る。僕達も困るんだよ。今集まってもらってるのは他でもない。
 今日は数字の話をしよう。具体的に言うと、お金についてだ。君らにはいくらお金がかかっているか考えたことがあるか? 生活費、食費、交通費、そして教育費。予備校に行ってる人もいるだろう。万が一浪人したら更に一年分かかる。
 一度自分で計算してみてほしい。具体的な数値を入れてな。君らは普通の人間より金がかかっているんだ。つまり、普通の人間より価値が高い。だから、人より頑張らなければいけない。無駄にしてはいけない。せっかく投資してもらって、普通の人間と同じでは情けないだろう?
 君らは恵まれているんだ。お金とは、気持ちだ。親に感謝しなさい。立派な人間になるように、勉強に励もう」
 お前らの言う立派な人間とは何だ? 人としての尊厳を失った奴隷になることが立派だとでも言うのか?

 後期には、文理選択をする必要があった。
 数学が苦じゃなかったとか、暗記科目が嫌いだったとか、探せば理由はいくつかあったかもしれない。理系の方が就職に有利という話をちらほら耳にしていた。確かに、文系は営業や接客のイメージしかない。理系には研究職や技術職がある。俺は何よりも、少しでも人と関わりたくなかった。
 俺は文系を見下していた。だがそれは、理系就職有利説を信仰していたからではない。爺さんが営業職だったからだ。
爺さんは某企業の支店長まで登り詰め、全国一位の売上成績を維持し続けたらしい。訓練をして饒舌多弁に話せるようになった話。訪問販売で客の心を掴む方法。多くの部下に慕われていたという武勇伝。俺は爺さんにそういったエピソードをよく聞かされていた。爺さんは口を開けば、大半が過去の自慢かお金の話か、家族の悪口のどれかだった。
 俺は爺さんの話がとても信じ難かった。
 なぜ元支店長が一家くらいまとめられない?
 対する父さんは理系だった。俺は、爺さんと同じ道を辿るのは絶対に嫌だった。俺が文系を選択するのはあり得ないし、あってはならなかった。二択にすらなっていなかった。
 俺は父さんと同じ理系を行く。そして父さんの道が正しいと俺が証明してみせる。爺さんより偉大な人間になってやると意気込んでいた。決意は固かったが、それは消極的な選択だったのかもしれない。俺の行く道に分岐点はまだ訪れない──。
 理系のくせに空いた時間はずっと推理小説を読んでいた俺は、尚更周りに変な目で見られていたことだろう。俺にはそこに何の負い目も無かった。
 俺はお前らとは違う。精神年齢も、価値観も、見据えているヴィジョンも、全て俺が上回っている。最後に笑うのはこの俺なんだ。そういうマインドが脊髄にまで浸透し、無意識の自我を形成していた。
 俺が読書に没頭している間は、周囲のノイズも排除することができた。人殺しの物語は、何冊読んでも俺を飽きさせなかった。
 加えて俺はネットにハマり、学力は上がりも下がりもせず横ばいの状態であった。三クラスある理系組で、丁度二番目の真ん中のポジションだった。

 定期試験後の、担任との面談。
「君はいつ見ても本ばかり読んでるね。もっと人と関わりなさい。閉じこもってちゃいけないよ。そんなんじゃ社会に出たらやっていけないから」
 違う。本は素晴らしいものだ。くそっ、まただ。寄ってたかって皆俺の好きなものを侮辱する。
「にしてもパッとしない成績だねぇ。ちゃんと勉強してるの? 家で何してんの? 何、ネット? あぁ、ゲームね。ゲームって。全然緊張感無いね。他の皆はもっと必至に勉強してるよ?」
 うるさい! 黙れ。お前に、お前らに俺の何がわかる? 俺がどんな思いをしてきたか、微塵も、想像にも至らないくせに。
 お前らは、勉強ができるかどうかしか見ていない。ただの一生徒として、流れ作業的に扱っているその態度が気に食わない。お前の言うことなんか聞くか。俺が正しい。これは俺の人生なんだ。赤の他人のお前が偉そうにしゃしゃり出てくるな!
 もう勉強なんてしたくなかった。俺はなんでこんな辛い思いをしているのだろう。母さん、もう疲れたよ。俺は今の実力で入れるところでいい。私立は駄目って話だったよね。ちゃんと学費の抑えられる国公立に入るから……。
「母さん、もう勉強すんのしんどい。休んでいい?」
「あかん。もっと頑張りなさい。あんた、子どもの時、ゲーム会社の社長になるのが夢って言うてたやろ。今のままじゃなれへんで。勉強しい」
 一点張りか……。母さんも、ろくな大学を出てないじゃないか。説得力がない。教師だってそう。偉そうなことを偉そうに言う奴ほど、聞いたことの無い大学を出ている。おかしいって。
 俺はもう気づいている。世の中の構造が間違っていることに。勉強しても、大学へ行って、就職しても、労働者になるだけ。人間から、人間以下の歯車に成り下がるだけ。
 学校とは、国が作った、従順な奴隷を量産する工場。起立、礼、右へならえ。生徒は教師に絶対服従。
 会社に入っても同じこと。上司の言うことには逆らえず、毎日ペコペコと頭を下げなければいけない。人生ずっと誰かの言いなり。己の命は他人に委ねられ支配されている。
 学校では、お金の教育はされない。国民がお金に詳しくなると、国が困るから。お金とは力そのもの。人が働くのは、誰のためでもなくお金のため。お金は人を動かす。それは俺の家庭でもそうだった。
 勉強はおしまいだ。俺は支配者になる。上の人間になるぞ──。

「天ヶ崎くん、この問題わからないの? 教えてあげようか」
 人のノートを勝手に覗くな。そんなこと言って、俺を見下しているんだろ。問題を解けた方が人間としての価値が高いと思っているんだろ。俺はお前とは見ているものが違う。生きている世界が違うんだ。
 俺はもう勉強しないと決めている。これは社会、学校教育に対するレジスタンス。この問題が解けなくても俺は志望校に合格できる。
 医学部がそんなに偉いか? どうせお前も、親の入れ智恵なんだろ。俺は違う。俺は誰にも支配されず、自分の脳味噌で道を切り開くんだ──。

 高校三年生。周りが受験モード一色の中で、俺はTwitterという秘密基地を発見した。
 今までは見る専だったインターネット。俺は趣味の合う人を見つけ次第フォローしていった。俺が何気ないことを発信しても、フォロワーは受け入れ反応してくれた。「ただいま」と呟いたら「おかえり」と返してくれる。ただの文字のやり取りなのに、俺は温もりを感じた。
 現実では良い事が何一つ無いこんな俺でも、帰る場所ができた。Twitterは俺の家だ──。

 保護者会の日、母さんが学校から帰ってきた。
「あんたの担任、なんなんあれ。あんたのことを『頭のネジが外れてる』言うてたわ。普通そんなこと言うか? むかつく。絶対に合格しいや。あんな奴見返してやれ。もう少しの辛抱や。じきに関わらんでよくなる」
 言われなくても分かってるさ。でも、あいつなんかのために勉強したくない……。
 あれ、俺は誰のために生きているんだろう? もう辛いことは嫌だ。楽しい事だけしていたいよ……。
 担任よ、俺のことを「頭のネジが外れてる」と言ったらしいな。俺に直接じゃなく、母さんに向かって。汚い。卑怯だ。何であんな奴が教師をやっている。顔にしわ、頭にも白髪が大量に混じっていて、息も酒臭いあんな奴が。誰の金でその酒を飲んでいる。
 父さんが一生懸命働いて稼いだお金が、そんなカスみたいに下らないことに使われている。学校も所詮商売なんだろ。教育なんて建前で、生徒から金を毟り取るのが目的なんだ。
 許せない。近づきたくもないあんな奴が、何で先生先生と慕われているんだ。憎らしい。殺してやりたい。死ねばいいのに──。

 土曜日も日曜日もひたすら模試で潰され、冬は息つく間もなくやってきた。
 二次試験当日。顔から下を炬燵に入れてそのまま二度寝してやりたかったのを我慢して、トボトボと会場に向かった。道が所々凍っていて滑りそうだった。
 既に俺は、受かると高を括っていた第一志望の前期日程に落ちていた。Web上での合格発表。連続する数字の中で俺の番号だけが飛ばされていたのを目にし、何かの間違いじゃないかと疑いたくなった。そして、たった今から延長戦が始まることに絶望した。
 私立も、引っ掛かったのは一校のみだ。
 俺のせいで、家の中もいつも以上に険悪なムードだった。期限の関係で私立の入学金を先に払わないといけなかったことを母さんに言われた。俺に発破をかけたかったのではなく、単にストレスをぶつけたかったのだ。泣きっ面に蜂である。
 今日は後期日程。今、一度落ちた所に再び向かっている。自分でもあまり期待していない。「今度こそ」とか「どうか掬ってほしい」とかも思わない。俺は受験というイベントをただ消化するために行く。
 朝の移動中も、休憩時間も、変わらずずっとスマホでネットを見ていた。辞められなかった。とっくに俺は現実ではなく、ネットの世界の住人になっていたから。
 今日という一日が早く終わってほしかった。今日が終われば楽になれる。
 解答用紙には冷め切った感情を擦りつけた──。
 やはりと言うべきか、後期日程でも俺の番号は見つからなかった。俺にとって受験はもう過ぎたことだったから、何とも思わなかった。別に、入学金を払い済みの私立に行けばいいんだ。浪人するのはあり得ない。
 そんな俺の体たらくに家族は滅茶苦茶言ってくると思われたが、特に何も言われなかった。俺に失望したのだろう。
 次の日、家の固定電話が静寂を破った。受話器から聞こえたのは補欠合格の知らせ。俺にとっても予想外の展開だった。無いと思っていたものが空から降ってきた。
 正式な書類も郵送されてきた。紆余曲折あり、俺は第一志望の国立大に合格した。家族は手のひらを返したように歓喜していた。その豹変ぶりに俺は一瞬怒りが爆発しそうになったが、理性を以て制御した。
 よかった……。首の皮一つ繋がった。今回ばかりはダメかと思った。いや、もうどうなろうと知ったこっちゃなかった。
 だって、どこの大学へ行っても、また勉強しなくちゃいけないから……。

  二〇三四年。美鶴からの手紙
 
 こんにちは。今日は悲しいお知らせがあります。
 先日、お婆ちゃんが亡くなりました。また家族が一人減ってしまいました。
 その日は施設の人から連絡が来ました。朝、老人ホームのベッドでずっと眠ったままだったそうです。脳梗塞。部屋のカレンダーに、「美鶴、ありがとう」と書いてありました。お爺ちゃんも、病院で息を引き取る直前に「ありがとう」とあたしに何度も言ってくれてました。
 葬式はもう済ませてあります。享年九十七歳。お爺ちゃんより十年も長生きでした。お婆ちゃん、お爺ちゃんと再会できたかな? お爺ちゃんもお婆ちゃんも翔馬も、同じ月に生まれたから、きっと三人一緒で居るよね。

  二〇一四年~。龍一の記憶

 大学初日。学籍番号順に班を作り、自己紹介をする時間があり、俺の番が回ってきた。
 中学高校の六年間はろくでもないものだった。またアレを繰り返すのか? 小学生の頃が一番楽しかった。
 今の自分を変えたかった。そこまで明るくなくてもいいから、劇的な変化も高望みしないから、最低限の生活を送りたい。これを機会に、生まれ変わりたい──。
 おかしいな。他の学生はキョトンとして俺を見つめている。
「どうしたの君。何とか言ったら?」
 俺は、声が出ていなかった。口を動かしているのに発声がされていない。それもそうか。六年以上の間、まともに喋っていなかったから。何もかも情けなかった。
 班活動はまだ残っていたが、俺は踵を返して構内を出た。大学でも自分を変えることはできなかった。結局は過去の延長線上。俺の道は、このまま死ぬまで一直線なのだろうか。
 そもそも、この大学も俺が決めた所ではないのだ。学費の安い国立で、就職率がそれなりに良いという曖昧な理由で、担任や親が勧めてきたから。
 枠にあてがわれて、いつまでも誰かの敷いたレールの上を不本意に歩かされている。思い返せば、それは中学受験の頃からだ。俺の道は、いつの間にか、無意識の内に他人に誘導されていた。俺は一人の人間だぞ。俺の人権はどこへ行った?
 地下鉄の駅のホームで立っていると、後ろから誰かに突き落とされないかいつも考えてしまう。人が信じられない。生きていても、何にも良い事がない。これから先もきっとそう。周りのサラリーマンも、漏れなく目が死んでいる。もう自分から、ここから飛び降りてみようかな。どれくらい痛いんだろう。
 ホームの端から飛び降りて線路に着地。どよめく人々。暗闇からガタンゴトンという合図が聞こえてくる。ライトに照らされ俺は顔を覆う。警笛とともに金属の擦れる音が轟くが、時既に遅し。超高速の鉄の塊は、無防備な肉体の上をギロチンのように無慈悲に駆け抜ける。未だ意識が残っている状態で、手足の骨、頭蓋骨、ありとあらゆる骨が粉砕される。それで俺の人生は終了──。
 死ぬにしても、痛くない死に方が良いなぁ。となると、首吊りか、毒薬か。どうせ死ぬから痛みなんて関係無いか。
 キャンパスライフなんていう楽園は、夢のまた夢だった。惰性で家と大学を往復する日々。
 髭を剃るのも、改札でカードをかざすのも、ルーズリーフに板書を書き写すのも全て惰性。つまらなそうに棒読みで説明する教授の声も横流し。文字通り俺は無感情だった。
 最後に声を出して笑ったのも、随分昔な気がする。一言も喋らない日は珍しくなく、むしろそれが普通だった。ずっと一人で行動していた。俺は孤独を愛していた。
 誰かが、「大学は人生の夏休み」と言っていた。どこがだ。課題、演習、レポート、試験の応酬。これでもかと言うくらいに俺の時間は搾り取られている。自由が失われている。帰宅しても疲れが取れないまま眠りに就く。これが現実なのだ。ただの地獄じゃないか。
 以前から考えていたことがある。どうすれば支配されない生き方ができるか。
 高三から続けていたTwitter。ある日のタイムラインは怒り一色に染まっていた。
「国民を何だと思っている!」
「人としての誠意は無いのか!」
 話題は増税。
 俺は人々の心の叫びを見た。皆不満を抱えて生きている。上の者が、抵抗できないのを良いことに弱者を抑えつけてるせいだ。
 しかし、こんな掃き溜めで何を言ったところで、何も変わらない。何も言ってないのと同じだ。
 俺は思った。これを集結し爆発させれば、とんでもないことが起きるんじゃないか? 俺は世の中に革命を起こしたい。下剋上だ。
 俺も不満をツイートした。「#Arcadias」のハッシュタグを添えて。

 実習の時間。班員は俺を除け者にして作業を進めている。
 声が出ない。ただそこで呼吸をしているだけ。俺は空気と同化していた。いてもいなくても変わらない存在。空気以下の価値。
 しかしその状態を改善しようとも思わない。今更頑張ったところでどうなる? タイムマシンで過去に戻らないと、俺の軌道は修正されない。
 彼らは俺を指差し、クスクスと笑った。
「おい、あいつ見てみろよ。一人で縮こまってやがんぜ」
「俺さっき後ろを通ったけど、課題一つも進んでなかった」
「はは、何やってんだ。おい、こっち睨んでるぞ」
「おぉ怖い怖い。何考えてるんやろな」
「知るかよ。俺らには関係ねぇ。関わりたくもない。俺らはあいつとは違うステージ、上を目指してるんだから。じゃあな、落ちこぼれ」
 今に見ていろ。後悔させてやる。
 間違っているのはお前らの方だ。お前らは社会の歯車として死んでいけ!

 必修科目でどうしても分からない課題があり、教授に質問しに行った時。
「このエラーが解消できないのですが、コードのどこが間違っているのでしょうか?」
「なに、こんなことも分からんのか。二年生でやった内容だぞ。みんなできるのに君だけ何故できない」
「もっと分かりやすく教えてください」
「私は忙しいんだ、出ていってくれ。君は駄目だ。他の学生に比べ劣っている。君は研究に向いていないよ」
 俺にとって勉強は学ぶものでは到底なく、無機的な情報を頭に詰め込む作業。苦行でしかなかった。
 追い返された後、部屋の向こうで教授の明るい声と女子学生の笑い声が聞こえた。
 ここは俺の住む世界じゃない。俺の居場所はどこにある?

 俺は塾で小学生を一対一で教えるアルバイトを始めた。「バイトしたらどうや」と母さんに唆されて。時給が比較的高いから俺は受け入れた。
 俺は断れなかった。その他にも、俺は車を運転するつもりもないのに、気づけば教習所に通っていて、財布に免許証が入っていた。
 今教えている少年は、どうもやる気が無さそうで集中していない。鉛筆の持ち方やノートの使い方を見るに、正直頭が悪そうだ。学力以前に、要領の話である。
 間違いなく、こいつも支配されている。自分ではなく、親の意思で塾に来させられているんだ。
 時間がきて少年の母親が迎えに来た。
「どうですか。うちの子、なんとしても受からせたいんです。お願いしますよ」
 見た目だけは教育熱心そうな母親は案の定、まるで他人任せだった。それは日が変わっても同じこと。
「ちょっと、全然成績上がってないじゃないですか。ほんとにちゃんと教えてるんですか?」
「教えてますよ。僕らは勉強を教えるのが仕事です。勉強のやる気を出させるのはあんたら親の仕事でしょう」
 俺は逆ギレ気味に返事した。久しぶりに大きい声が出た。
 少年と母親が帰った後、「あんな言い方は良くない」と上司に注意された。
 俺は決して悪くないと思っている。俺は上司に、駄目な生徒を押し付けられている感じがした。他の講師は挙って物分かりの良い生徒を教えている。物分かりの良い生徒だから、どう教えようと成績が良い。
 なんでいつも、俺はこういう役回りなんだ。理不尽だ──。
 スマホを弄ってると、上司がやってきた。
「もう時間だよ。他の先生はもう席に着いてるよ。ほら、ユウキ君が待ってる」
「うるせぇな」俺は、堪忍袋の緒が切れた。
「なんだ?」
「偉そうに俺に指図するなって言ってんだよ。お前がやってみろや!」
 俺はプリントを撒き散らした。そして、それを拾い集める男の足元に唾を吐いた。
「おい、どこへ行くんだ」
「帰るんや。二度と来るか。こんなとこ」
 俺はスーツのまま、更衣室にある着替えを鞄に詰め込んで帰った。振り返ることは決してなかった。

 大学の就職説明会。
「──入社当初は全然仕事が捗らなくて落ち込んでいました。このままではいけないと思い僕がとった行動は、就業時間以外でも仕事のことを考えるというものです。人に遅れを取っているのだから、人よりも頑張らなければいけない。初めは辛かったですが、知識が増え理解が深まるにつれて視界が開け、仕事自体にもやりがいを感じるようになりました。現在僕は毎朝五時に起きて、出社前に勉強しています。継続は力なり。皆さんも、小さなことからで構いません。コツコツと続けていれば、気づいた時には人と差をつけることができているでしょう。是非、自分磨きに励んでください」
 スライドを使い自信満々に話す三十代半ばのOBを見て、俺は鼻で笑った。堪えなければ吹き出してしまうところだった。
 完全に毒されている。洗脳されているんだ。それが正しいという脳味噌に書き換えられてしまっている。
 お前は縛られている。支配されているんだぞ。悔しくないのか。屈辱を感じないのか。俺には洗脳は効かない。俺は絶対にこうはなりたくない。

 インターンシップには何度か参加した。何故だろう。頑張っている、まともに生きようとしている自分を演出したかったのだろうか。
 スーツ姿は生理的に無理だった。
 俺はこんな生き方したくない。空気を読んで、周りに同調して、右にならえして、自分の意見も持たずに、ただ流されるだけ。
 働く方向へ向かっているはずなのに、働きたいという思いは遠ざかるばかりだった。自分に嘘をついて誤魔化して生きていくのか、という疑問が大きくなるばかりだった。
 大人になると何かを失う人が多い。子供の頃の夢。将来なりたい自分。大人になると夢を語らなくなる。夢を語ると「現実を見ろ」と言われ笑われる。
 夢。それはきっと正直さだ。夢は諦めるべきものではない。自分を殺す生き方は死んでいるのと同じだ。だから夢を捨てた人間は死んだ目をしているのだ。

「休まずに大学行って偉いね」
 母さんの何気ない言葉は、俺の胸を締め付ける。
 母さん、楽しくない。全然楽しくないよ、俺の人生。ずっと独りぼっちだ。小学校から塾に通わされて、ずっと勉強漬けで、これが母さんが望んでいたことなのか? 俺にさせたかったことなのか? 貴重な十代二十代を棒に振った。一度くらい、恋愛と呼ばれるものをしてみたかった。俺に青春なんて無かった。
 高校生くらいからだったか。夜寝る前に、ベッドでよく妄想をする。あんなことしたいな、こんなことできればいいな。でもそれは全て幻想。『ドラえもん』とは違って、それが叶うことは決してない。それが現実だ。
 目が覚めても、またどうしようもない一日が始まるだけ。就職して会社員になっても、そんな詰まらない日々の繰り返しなんだろうな。
 何のために生きてるんだろう。死んでやろうかな。幸せになりたい。今の俺は幸せじゃない。
 涙で枕を濡らしても、人生の灰色の染みは落とせない。
 俺が何か悪いことをしたか? 誰のせいでこうなった?

 とうとう俺は、大学をサボりネットに入り浸るようになった。そこにしか心の拠り所は無かった。現実からの唯一の逃げ道であり心の支えだ。
 俺は生死の狭間を彷徨っていた。フワフワと均衡を保ったそのシーソーが少しでも傾くと、俺の命は危うかったかもしれない。
 講義の一コマ九十分も、集中力が持たなくなってきた。興味のない話を延々と聞かされるのは苦痛でしかなかった。スマホを触って時間が経過するのを待っていた。
 無気力に地下へ吸い込まれて行きながら、俺は大学へ行く意味も利点も無いという思想が固まりつつあった。就職するつもりも研究者になるつもりも更々無いのだから。電車賃も、何より時間がもったいない!
 ネットに生活を破壊され、昼夜も容易に逆転した。意気投合した仲間と連日徹夜で遊んだ。ネットにどっぷり浸かれば浸かる程、自分の適性を実感できた。肺呼吸よりも鰓呼吸の方が、酸素が美味しかった。 
「あんた、大学は?」母さんは、俺が平日もよく家に居ることを心配し出した。
「今から行っても間に合わん。今日は出席せんでもいい教科やし、大丈夫」俺はテキトーに誤魔化した。母さんはそれ以上は言ってこなかった。
 あくびが連続して出た。今日は布団に入ってゆっくり寝ていよう──。
 当然の成り行きだが、俺は単位をボロボロと取りこぼした。勿論必修科目も例外ではない。
 気が付けば、二度留年していた。年を取るにつれ、一年の長さが短くなってきている気がする。いや、ネットに没頭していたからか。
 再履修の教室に行くと、俺より年下の人間しかいない。楽し気な奴らを見てると、ぶん殴りたくなる。積み上げられたジェンガや、プラレールの線路を台無しにしたくなるような、そんな破壊衝動に駆られることがよくある──。

 どうにかこうにか、卒業研究まで漕ぎつけた。しかし、必要な単位は他にも残している。卒業の見込みもはっきり言って無いのは自覚しているし、その意欲も無い。なのになぜ俺はあがいている?
 研究室では、俺の同期が院生となって忙しそうにしている。俺の事を記憶しているのか、気づかないふりをしているのかは分からない。
 彼らはお金を払って研究をしている。それでも自由に設備を使用することはできず、教授の指示に従うしかない。何も疑問に思わないのだろうか。
 温厚そうな教授は気を遣って俺を部屋に呼び出し、話をした。
「とにかく、大学は卒業しといた方がいいよ。高卒とは就職の条件も収入も変わってくるから。親御さんがせっかくお金払ってくれてるんやろ。辞めるなんてもったいない」
 果たして本当にそうか?
 やっぱり教育者の言うことは信用できない。視野も狭いし、考え方が古く、価値観が凝り固まっている。
 それは会社員という名の奴隷になる前提の話だろう。俺とは見ている世界が違い過ぎる。俺は何にも支配されたくない。自由な生き方を死ぬまで全うしてみせる。
 学歴がそんなに重要か? 世の中には、中卒で総理大臣になった者もいれば、東大の大学院まで行って無職の者もいる。人間の本質とは全くかけ離れたファクターであるのに、世間ではそれが代表的なステータスとして見られる。
 そういう思想を持つ俺に、働けと言っているのか?
 会社の犬になって上司に尻尾を振り続け、こき使われて、誰のためか分からずに残業。表面上の付き合い。満員電車に揺られて家と会社を行ったり来たり。
 一日の大半を労働に費やす地獄の四十年。自分の思い通りにならない、支配された人生。生きがいもやり甲斐も、自由も無い。強いて言うなら酒しか楽しみがない。アルコールで身体は潰される。
 結婚したとしても、毎日毎日夫婦喧嘩。思い描いていた理想の幸せは決して訪れない。生まれてくる子供も期待外れ。不幸な人生の連鎖は止まらない。結婚するんじゃなかった。子供なんてつくるんじゃなかった。あの頃に戻って、人生をやり直したい。後悔先に立たず。
 精神的にはずっと孤独。誰も自分を分かってくれない。愛してくれない。何も成し遂げずに、時間だけが過ぎ、誰の記憶にも残らず死んでいく。命の無駄遣い。
 親もそれを望んでいるというのか。受験、面接という茶番の末路、社会のレールの最果てがこれとは、愚の骨頂もいいところだ。

  二〇三八年。美鶴からの手紙
 
 よく眠れていますか。
 あんた、人生終わったと思ってるかもしらんけど、人生なんていくらでもやり直せるよ。まだ百の半分もいってへんやろ? あたしくらいの歳になるともうしんどいけどな。
 どうか希望を持って、生きて欲しい。生きてたらきっと、いや、必ず良い事があるから。この手紙は一方通行やけど、あんたの元には届いてると信じてるよ。
 外に出てこれたら、あんたの新しい人生が待ってるよ。今度こそ、みんなで揃ってご飯食べよう。信じてるから。

  二〇二〇年~。龍一の記憶

『退学理由:私は社会不適合者です。他人とまともにコミュニケーションができません。気の利いたことが一言も言えず、何気ない会話も無理です。第一、自分から話を始められません。笑顔も作れません。人間不信です。こんな人間が社会に出たとして、やっていけるわけがありません。そもそも大学に入ったのも、受験勉強をしていたのも、親の期待に応えようと無心でしていたのであり、そこに私の意志はありませんでした。私はこれまで、無意識に生きていました。もう勉強するモチベーションが沸きません。留年と休学を合わせて既に三年半。卒業研究も残っているので、残り半年の猶予で単位を揃えるのは不可能です。私にできることは何かと考えた時、一つ浮かんだのは、ただじっとしていることでした。もう何もしません。誰とも関わらないようにします。社会に出て人と関わっても、皆様に迷惑をかけるだけなので、家に引きこもって死ぬ時を待とうと思います。今までありがとうございました』
「父さん、ここに判子押して」
「はぁ? もう少しで卒業やろ。頑張りいや」
「もう無理。あの空間に行くと死にたくなる」
 俺は自然と涙声になった。限界だった。
 俺も父さんみたいに、普通に生きたかった。でもできなかった。もう、人間が無理だった。人が居ない場所がいい。一人がいい。静かな所が一番落ち着くから。
 父さんの表情を見ることもできない。溜息が流れた。
「分かったわ」父さんは同意したのではなく、折れたようだった。
 一人になった瞬間、罪悪感が俺を襲ってきた。七年半を費やして、最終学歴は高卒だ。
 ごめんなさい。だめ息子で。期待に応えられなくて。
 しかしそれはたった一瞬の出来事だった。後に、罪悪感が吹っ飛ぶ程の甘美な解放感がやってきた。もう我慢しなくていい。自由だ。
今まで積み上げてきたものを取っ払えた爽快感すらあった。俺にとってそれは重くのしかかる枷でしかなかった。俺は精神的に身軽になった。
 俺は小学生から、他人の敷いたレールの上を歩かされてきた。レールの上にしか人生は無いと思い、はみ出ないように、無理をして足並みをそろえていた。
 他の生き方は知識として無かった。テレビをよく観ていたはずなのにな。就職して会社勤めをするしか生き方を知らなかったのである。テレビの中の人達は異世界の住人だと思っていたのかもしれない。
 レールの上を歩くことは自分の意志ではなかった。本心でも本望でもなかった。受験などの関門を乗り越えても、次の関門は休む間もなく現れる。一時の安堵はあっても、慢性的な不安や悩みは消えない。いつになれば報われるんだろう。ずっと誰かと競争して、世間の目を気にして生きていくのか。そうして何事もなく死んでいくのか。それが俺の人生か。
 俺はただ自由になりかった。誰にも抑圧されず、何にも束縛されず、全て己で決定できる権利、力が欲しかった。
 今まで耐えてきた。辛かった。嫌だった。不幸だった。ここから始まるのは、俺の人生第二幕。頑張るぞ。逆転してやる。
 母さんには事後報告をした。
「えぇ? 退学届け、もう出したん? ……そうか、あんたの決めたことやからな……。あんたも今まで無理させてたんかな。ごめんな……」
 俺は後ろめたさを感じていない。心持ちは前向きだ。随分と遠回りをしたが、これで良かったんだと思う。
 退学届けはあっさり受理された。大学側も、こんな人間と縁を切れて、さぞ喜んでいることだろう。

 おそらく母さんは俺どころではなかったのだと思う。両親の介護、うつ病の弟の世話。家庭内に問題は絶えない。
 てんてこ舞いの母さんは、家にケアマネージャーを呼んだ。
 爺さんはこう言っていたらしい。
「わしはまだボケてへん! 老人ホームなんてあんな刑務所みたいなとこ、絶対入らんぞ。入るくらいなら死んだ方がマシや」

  41

 ――あんな刑務所みたいなとこ──

 はっ……!
 長い間夢を見ていた気がする。ずっとうなされていた気がする。ここはどこだ?
 薄暗い部屋。隣で男の寝息が聞こえる。
 刑務所か。そうだった、俺は人を殺したんだった。はは──。
 当たり前になった冷たい飯を口にしていると、雫が数滴頬を伝った。もっと心の芯から温まる、あったかい食べ物、母さんの料理が食べたい。
 おにぎり、味噌汁、ハンバーグ、オムライス、野菜炒め、グラタン、ホワイトシチュー、カレー、鍋。母さんの作るものは温かかった。飲食店のような過剰な味付けはせず、濃くも薄くもない丁度いい塩梅。それが俺のおふくろの味。
 温もり、愛情が欲しい。人の肌に触れたい。誰かから、愛されたい。
 現在の俺は、地球でたった独りぽつんと佇んでいる。
 俺は何をしている? 何でこうなった? どこで間違えた? 何がいけなかった? 何のために生まれてきた? 何で生きている?
 ガンッ、ガンッ。俺は柱の金具に何度も思い切り頭をぶつけた。痛い。血は出るけど死ねない。
「おいお前、何をしている!」刑務官に止められ、頭に包帯を巻かれた。
 ――自殺するやつはアホや──
 また爺さんの言葉だ……。
「どうしたそれ。あれだけやって結局死ねんかったんか。お前はどうしようもない奴やな」
 同じ部屋の奴らは俺を指差し笑った。
「そこで一日、正座して反省してろ」
 独房に入れられた。俺は目を閉じ手を膝に置いて瞑想した。頭の痛みも足の痺れも感じない程無心だった──。

  42

 ある朝、刑務官に最初に言われた言葉。
「天ヶ崎、今日はお前の……の日だ」
「え……? シケイ?」
 声が裏返った。俺は、殺されるのか? 胸に手を当てる。鼓動も早くなっている。
「違う。釈放と言ったんだ。尤も、仮釈放だがな。まだお前には五年残っている」
 よかった……。死ぬ訳じゃなかった。俺は胸を撫で下ろした。
 そうだった。俺は、地方更生委員による面接を受けたことをすっかり忘れていた。五年ってことは、俺は十五年ここに居たのか……。
 そのまま車に乗せられ、壁の外で降ろされた。やっと、やっと出られた……。本当に、長かった。
 人生で、今までのどの関門を乗り越えた時よりも解放感があった。もう耐えなくていいんだ。
 しばらく歩いていると、見覚えのある通りに出た。立ち並んでいる建物こそ変わっているが、確かに俺は昔ここへ来たことがある。
 前から人が通り過ぎてくる。俺はどんな風に見られているだろう。この街に溶け込めているだろうか。時代に取り残された、浦島太郎のような感覚がする。今俺は四十三歳。もうそんなに年を取ったのか。
 ひとまず俺は銭湯へ行くことにした。体をさっぱりさせたい。
 当時の店はまだ残っていた。外装はリニューアルされたようだが、看板はそのままで、年季が入り味が出ている。懐かしい。子どもの頃に家族に連れてきてもらった記憶が掘り起こされる。
 平日の昼間だから、中はがら空きだった。
 子どもの頃にやっていたこと。シャンプーやボディソープを桶の中に出して、シャワーの水圧で泡立てるのをまたやってみる。やはり、塀の中とは比べ物にならない程泡立つ。表面にこんもりと盛り上がった泡を両手で掬い、頭からつま先まで丹念に洗った。
 両手を頭の後ろに回して浴槽に浸かる。おっと、もうこんなことをしなくていいんだった。刑務所にいた時は、十分で済まさなければならず、手を浴槽に沈めるのも禁止されていた。もう意味不明な縛りからも解放されている。時間も気にしなくていい。
 のんびりと肩まで浸かっていると、なんか幸せだな、と思った。何でもないようなことに俺は幸福感を覚えた。これが普通の人生か。普通の人生は、幸せだったのか。
 風呂から出たら、タオルを巻いた裸で瓶の牛乳を一気飲みした。火照った体に冷えたカルシウムが沁み渡る。うまい。それから子どもの頃は、置いてある体重計で遊んで怒られたりしたっけ。
 何故だろう。昔のことばかり思い出す。昔は、俺は幸せだったなぁ──。
 せっかくだからと併設のマッサージ屋にも行った。店でマッサージをしてもらうこと自体、初めてだ。
 若い女性店員に促され、俺はうつ伏せになった。
「お客さん、ずいぶん硬いですね」
「実は俺、今日出所してきたばっかなんですよ」
「えっ……?」女性は怯えたような声色に変化した。
「いや、嘘ですよ? 冗談冗談。ほんまなわけないでしょう」俺は焦って否定した。
「そうですよね。変な冗談はやめてくださいよー」
 女性は笑ってくれた。危ない。からかうにしては度が過ぎたか。
 彼女に色々なところを触られ凝りがほぐされていくのと引き換えに、下の物は固くなっていった。俺は極めて自然と勃起していた。今日出所してきたばかりという話は事実なのに、構わずせっせとマッサージを続ける女性の無垢さに興奮もした。
 生殖機能が未だ健在であることに自分でも驚き、身体は正直なものだと呆れにやついた。そういや女性と話すのも何年ぶりだ。母さんはどうしてるだろう。まずは母さんに会いたい。
 更に歩いて、家の前まで来た。俺の帰るべき場所が当たり前のように残っていることは嬉しかったが、花壇や植木鉢に緑は無かった。
「あんた、誰や?」
 丁度、門扉の向こうから話しかけられた。彼女は木製の椅子に座っている。母さんか。偉く老けたなぁ……。それはお互い様か。
「俺や俺。龍一」
「リュウイチ……?」
 本当に母さんか……? 分からないのか、俺のことが。なんだか、婆さんみたいだ。
 もしや……忘れているのか、認知症で。
 俺のせいなのか? 犯罪者の親になってしまったことがショックで……。俺が人を殺したから? いや、それよりも前から、俺の人生は狂っていた気がする……。
「おぉ、龍一か」
 開いた玄関に父さんは立っていた。髪が真っ白になっていた。この前まで黒かったはずなのに。
「ボケてんねん、美鶴」
 母さんはこっちを見ているが、焦点が定まらない感じだ。何やら口を動かしているが、よく分からない。
 ──ウチらがボケたら、老人ホームに入れるつもりはあるんか?──
 俺は母さんの言葉を思い出した。
 俺達は中に入った。茶の間に行くと、箪笥から盛大にはみ出して山積みにされていた衣類が消えていた。豚小屋同然に散らかっていた部屋が嘘みたいに整頓されている。父さんが全て処分したのだろう。この家には、もう三人しかいないんだな。
「ほんで、どうやった? 人を殺してみて。刑務所に入ってみて」それが口火を切った父さんの言葉だった。
「はぁ?」
「気になるやろそら。わしが体験せえへんかったことをお前はやったんやから」
「克亀くん、言い方が良くないんとちゃう?」
「俺を馬鹿にしてんのか! 父さん!」俺は立ち上がった。何か刺激されるとすぐに興奮してしまう。俺の癖は治っていない。
「龍一、座れや。わしは馬鹿にしてるなんて一言も言ってへんぞ。もう過ぎた事やしな。ああだこうだ言ってもしゃあない。でもこれは、あの世の翔馬もきっと思ってることやと思う。やから、教えて欲しいんや。実際に人を殺すにまで至った、心情の変化みたいなもんを」
「あたしが、『翔馬を虐めた奴を殺したい』って言ったからやんね……? きっと」
「ちょっと母さん。黙っててくれへんか。今父さんと話してる」
 母さんは耳も少し遠くなっているようだ。父さんのジェスチャーを見て母さんは口を閉じた。
「そんなん、言わんでも分かるやろ、父さんなら。話したくもない」
「そうか。まぁ正直察しはつく。わしはお前に共感するよ。わしも爺さんを憎んでいたが、殺そうとはせんかった。それは殺しても、何の意味も無いってことを分かっていたから。殺したとて、感情は収まらん。新たな憎しみが生まれるだけ」
 確かにそうだった。人を殺して、はいおしまい、とはならなかった。
「人間には理性がある。感情よりも理性や。お前の場合、よく感情が突っ走ってしまうからなぁ」
「父さん、俺は病気なんか? これまでに何度もあった。抑えようとしても、気が付いたら感情が爆発しているんや」
「うーん。わしは医者でもなんでもないから医学的なことは言えんけどな。より強い理性が必要なんとちゃうか?」
 より強い理性……? 俺にはピンとこなかった。
「それか、理性も感情の一部になってしまっているとか? 感情のエネルギーが強いあまりに」
「どういうことや、それ」
「理性が感情に取り込まれとるとでも言うんかな。極限状態で、理性の方も、感情を正当化でもせんともたんかった。ずっと抑えつけられてたんがしんどかったんやろ。檻に入れられた虎みたいに」
「檻……。虎……」
 ──わしは絶対入らんぞ。あんな刑務所みたいなとこ──
 そうだ。俺は自由になりたかったんだ。
「そうして抑えつけられたせいで、他人へ向くべき関心が自分に集まった。自分だけの世界を築き上げ、そこへ閉じこもった。自分が大事。自分を守らなければ。そういう思想に傾いた。ちゃうか?」
 父さんの考察は鋭く、俺に突き刺さった。父さんは、見ていないようでしっかり俺のことを見ていたのだ。
「龍一。お前は、俺が俺がって、いつも自分のことしか考えてへんかった。社会ではそういう人間は嫌われてまうんや。自分中心の人間には、最終的に人は寄り付かんくなり、どんどん離れていく」
「そんなこと、もっと早く言ってくれよ! そこまでお見通しなら、なんで父さんは何もしてくれんかったんや!」
「お前にとって、他人に言われるのはそれこそ抑えつけられることになる、とわしは考えたから。身をもって知ってほしかったんや。自分で気づいてほしかった。でも、こうしてみるとわしの方法は間違っていたようや。これが初めてかもな。今からわしがお前に説教してやる。真の意味で更生させたる。聞いてくれるか?」
「あぁ。父さんの言うことなら……」
「よし。人や社会というのはな、元から誰のものでもない。訳もなく生まれてきて訳もなく死んでいく。それが人や。ただそれだけの命。
 人生に意味なんて初めから無い。その人の集まりが社会というもの。社会というものそれ自体に思惑なんてない。人という有象無象の集合体なだけ。人一人で社会は動かせん。そこには何百万、何千万、何億の人がおるから。
 社会を動かそうとするな。人一人にできることは、せいぜい流れに身を任せることくらいや。たった一人の人間なんて、地球からみたらミジンコ以下。吹けば飛ぶような存在やから。
 若者は、誰かに認められようとしたり、あるいは悪目立ちしようと犯罪を犯したりするけどな。社会に訴えても、何も帰ってこん。そういうもんなんや。
 自分以外のものを無理矢理変えようとするな。何かを変えたければ、自分自身を変えろ」
 父さんが語ったことは、前頭葉が真っ二つに割れる程衝撃的だった。今まで積み上げてきた知識、価値観、論理が音を立てて崩れ出した。天動説の信者が地動説を突き付けられた時も、こんな感覚だったのだろうか。
 俺は、自分が世界の中心だと思っていた。それはずっと苦しめられてきたから。支配という暴力を受けてきたから。俺も支配する側に立ちたいと望んでいた。俺以外の人間を俺に服従させたいという欲望があった。
 しかし、世界の中心なんてものは、端から無かった。社会という宇宙は、無数の人という微粒子の運動によって回転しているだけ。蒸発した水の集まりが雲となって雨を降らし、その雫がまた雲を作るように、海の波が行ったり来たりするように、その現象は意味を持たない。恵みの雨も海が怒っているのも、人間が勝手に言っているだけ……。
 そんな……。俺は嫌だ。ずっと、人に認められたかったんだ。歴史上の英雄のように、大勢に名を知られ、永遠に語り継がれていく存在に、憧れていたのだ。
 アレクサンドロス大王、織田信長、ナポレオンだって、人の上に立ち、大勢を指揮し、時には人を殺してきたんじゃないのか?
 俺は「お前は凄い奴だ」って、「人の上に立つ人間になれる」って、散々期待されてきたのに。龍一という名前だって、爺さんがつけたものだけど、一番になれという願いが込められているんじゃないのか?
 俺にはもう分からない。何を頼りに生きていけばいいんだ。どこに希望の光を見出せばいいんだ。
 母さんの方を見ると、母さんも俺の方も見つめていた。母さんも、似たような話をしていたな。遺伝子の箱舟の話。
 ──生き物は、子孫を残すことが一番の仕事なの。あんたも大人になったら、結婚して子ども作らんとあかんよ。そうせんと人は滅んでしまうから──
 人が滅んだって、どうだっていいじゃないか。
「全ての悩みは対人関係の課題である」と、かのアドラーは言ったらしい。ならば人間なんて滅んでしまえばいいのではないか。人間は何のために人間を保っている? こんな訳の分からない、理不尽だらけの馬鹿げた社会の中で、なぜ子孫を残している? 生きていても楽よりも苦の方が多い。それでも生き続けるのは何だ?
 人間は愚かで、未熟で、儚い。
 人間は、肉体に魂を飼って生きる。普通の人間は、一日ずつ死に近づいていってることも、明日死ぬかもしれないことも意識しない。それどころか、自分は死ぬわけないと思っている。命が永遠なはずないのに、死をイメージできていないのだ。
 俺は人間を超えたかった。人間を辞めたかった。もう人間が嫌いになっていたから。けれど、人間は人間を超えられない。所詮、人間どまり。この肉体という牢獄からは抜け出すことはできない。
 意味が無いだって? そんな身も蓋もない話があるかよ。それじゃあ今までやってきたことは何だったんだ。認められたいという欲があったとしても、恵まれない環境で育ち社会に不満を抱いていたとしても、受け入れろって言うのか? 残酷だ! そんな世界は嫌だ! 世の中は間違っている!
 俺は何のために生まれてきた? 父さんと母さんはなんで俺をつくった? 何のために……。
 翔馬も言ってたぞ。
 ──僕も生きる目的が欲しいよ──
 俺は、俺は……。
 俺は言葉を失い、膝を地に付け項垂れた。みんな、皆なんでそんなことを言う……。
 そうだったんだ。わかったよ。俺は死ぬべき側の人間だったんだ。俺は要らなかったんだ。
 生まれ変わったら、零からなら、正しい人間になれるかな。
 もう、疲れたよ。
 長い沈黙が流れた。
「でもな、龍一。意味が無いからこそ、自分で意味を」
「もうええわ」
「龍一、おいどこへ行く?」
「出て行くんやろうが。ここに居てもしゃあないから」
 父さんもじゃないか。爺さんみたいに長話しやがって。言っただろ。もう俺は誰の言いなりにもならないって。
 俺は夜の暗い闇の中に吸い込まれていった。

  43

 カラスの鳴く声がする。目が覚めると、俺は路地裏に横たわって寝ていた。カラスがゴミ袋を突いて破いたらしい。生ごみの匂いがきつい。俺は立ち上がり、汚れたジャケットとズボンを叩き、歩き出した。
 俺にはまだやるべきことがあるんだ。
 何度目か分からない自問自答をする。
 爺さんがいなかったら、本当に幸せになれたか?
 俺は、なれたと思う。
 こんな家に生まれたくなかった。人生失敗。不運だった。おみくじの結果は大凶。
 結局人の人生は生まれた環境次第。雛が初めて目にした鳥を親と思うように、貧しい家庭、暴力的な家庭、荒んだ家庭に生まれたら、その子は不幸になる。そうなる確率の方が高い。逆の場合も然り。「人生ゲーム」という双六があるが、リアルの人生もそう変わらない。
 政治家も、アスリートも、アーティストも、生まれ持った力がある。持たざる者には力が無い。努力だけではどうにもならない。初めから決まっている出来レース。
 生まれという賽子で運命が決定づけられる、全てが運に委ねられたゲーム。努力次第なんてのは綺麗ごと。一周回って汚い言葉。卑怯な誤魔化し。
 最近では「親ガチャ」なんて言葉も浸透している。浸透しているということは誰しもそう感じているのだ。この世は不平等。慈悲深き神なんていない。それは心の弱者が造り上げたフィクション。
 その、神というフィクションも万人に共有されてきた。藁にも縋る思いなのだ。すぐそこまで追い詰められているのだ。
 残酷で救いようの無いこの世界に終止符を打とう。
 俺は何度も、繰り返しイメージをしてきた。必死に、極限まで考え続けた。
 生死の狭間でもがく自分の姿は醜いか、美しいか。
 一見容易だがある意味他殺より困難で崇高な所業。
 俺は龍だ。人間ではない。魂を人間の肉体やこの世の俗物から解放し、俺は上の次元へ行く。それが人間を超えるということ。自由になるということ。
 俺が正しい俺が正しい俺が正しい。
 間違ってるのはお前らの方だ。俺は認めない。俺は許さない。俺は絶対に負けないぞ。
 こんな世界、消えてしまえばいい。
 もう何の未練も無い。
 これは逃げでも敗北でもない。悟りであり勝利だ。俺が押すのは、人生のリセットボタンなどではなく、スタートボタンだ。
 もう、何の恐怖も後悔も感じない。

  44

 ここは俺が何千回と通っていた場所。家とどこかを往復するための中継地点。
 白線から順に行儀よく人が並んでいる。そこにはやはり生命力は感じられない。まるでチェスの駒だ。
 俺はそこには並ばず、横に出て縁から穴を覗こうとする。
「君、危ないよ」
 男に後ろから引き留められた。
「触るな! お前、邪魔すんなや! 死に損ねたやろうが!」
 肩に乗った男の手を即座に振り払い、俺はジャケットの内から果物ナイフを取り出した。チェスの駒達は散り散りに逃げ惑った。
「お前も死んでみるか? 来る日も来る日も満員電車なんかに揺られる人生、やり直したいとは思わんか?」
「ひぃっ……」男はだらしなく腰を抜かした。
 こうなったら予定変更だ。俺はナイフの柄を両手でギュッと握りしめる。
「みなさーん! 今から俺は死にます! 人が死ぬ様をとくとご覧あれ!」
 周りの人間は皆、距離を確保しながらも俺を見ている。いま俺は好奇の視線を浴びている。不思議なことに、誰も俺を止めようとしない。釘付けだ。このステージで、俺は今最も注目されている。それが単純に嬉しい。興奮する。さぁ、自殺という名のショータイムの始まりだ。
 初めからこうすれば良かったんだ。簡単な話だった。
 俺に対して、人間という器は小さすぎるのだ。
 大いなる俺の魂よ、大地を震わせ、天高く飛翔せよ。
 死へのカウントダウンを開始する。
「いきまーす! 三! 二! 一!」
 何の躊躇もなく、鋭い刃を喉に突き刺す。数人の悲鳴と共に赤い飛沫が宙を舞った。

  45

「昨日の午前、京都府○○駅にて、天ヶ崎龍一(四十四歳)が、刃物で頸動脈を切り、自ら命を絶ちました。ズボンのポケットの中には直筆で書かれた遺書らしき物が見つかっています」

  遺書
『私は社会不適合者です。普通の元気で明るい男の子だったのに、ある日を境に歯車が狂わされ、私は変わってしまいました。変わってしまった私は、大学も卒業できず、就職もできず、誰との繋がりも作らず、何年も家に引きこもっていました。挙句の果てに殺人を犯し、刑務所に十五年居ました。私の人生は何だったのでしょうか。こんな思いをするために生まれてきたのかと思うと、やるせない気持ちでいっぱいです。こんなんじゃなく、普通で、平凡でもいいから、幸せな人生を送りたかった。私はこの世界ではやっていけなかった。私は私にふさわしい場所へ行こうと思います。ここから、新たな本当の人生をやり直します。それでは、さよなら。 天ヶ崎龍一』

「続いてのニュースです──」
 スマイリー・ガーデンの大広間のテレビの前で、天ヶ崎美鶴ただ一人が床に膝をついて号泣していた。

  46

『以上が本日の報告になります』
『ご苦労。我らがArcadiasも、今や大所帯となった。規模が大きくなるほど必要になってくるものは、結束力だ。皆の者、この国に変革をもたらしたいという意識を決して忘れぬように。我々が日本を再生するのだ』
『はっ、メビウス様!』

 あいつも死んだか。
 実を言うと邪魔だったんだ。ずっと部屋に引きこもって、何を考えているかさっぱりわからない。疑わしきは殺すのが筋ってやつだ。
 実に厄介だった。どうしたものかと手をこまねいていたところで、勝手に死んでくれたのは手間が省けて助かった。
 元々子どもは欲しくなかったんだ。自分の時間が削られるし、金もかかるしな。だが、あいつにどうしてもって言われると断れなくてな。
 やはりわしの思った通りになったじゃないか。そりゃそうだ。龍一にはわしの血が流れているんだから。子は親を選べない。ある意味お前は、ずっと支配されていたのだ。
 でもこれでやっと終わった。そしてわし以外誰もいなくなった。ついにわしの天下が来たんだ。
 鶴は千年、亀は万年。ここからはわしの時代だ。
 カップに淹れたブラックコーヒーを啜り、天ヶ崎克亀は高笑いした。

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