我殺す、ゆえに我あり (1/4)

  0

 人間は、何かと意味を持たせたがる生き物である。時に執拗な程に。絨毯の皺や天井の汚れが人の顔に見えたり、ばったり出会った人間と意気投合し「運命」と感じたり。
 この地球に生まれたのも、日本語が母国語であるのも、意中の人間に出会ったのも、全て単なる偶然の連続でしかないのに。そもそも、こうして呼吸ができているのも、地球と太陽の奇跡的な位置関係の賜物でしかないのに、人間は意味を後付けする。
 人間が人間に抱く「好き」という感情も、生物的本能によって導かれたものでしかないのに、あれこれ理由を論理的に説明しようとする。
 人間は、まるで自分中心に世界が回っているかのように、自分の都合の良いように物事を解釈する。
 中でも、「初めて」はよく印象に残る。小説家にとっての初めて創作した物語。アナウンサーにとっての初めて読んだニュースの内容。ピアニストにとっての初めて演奏した曲。初めての恋人。初めての行為。そして、初めての殺人。
 一番記憶に残っている「初めて」は何だ?
 なぁ。初めて人を殺した時、どんな気分だった?

  1

『お金が欲しい人、集まれ!
 日給一万円~。簡単な作業をこなすだけ。
 職歴、年齢、性別不問。
 スキルの無い方、人が苦手な方でも大丈夫。
 興味があればDMお待ちしています。
 #Arcadias』
 ツイート、送信。
 襖に囲まれた畳敷きの部屋で、俺は起きて早々、PCと睨めっこしていた。無駄な物が一切排除された、閉ざされた空間。ここは俺だけの城。今日も今日とて籠城している。画面上で、時刻は十時四十三分と表示されている。三月十六日。今日は火曜日か。
「龍一! ちょっと降りてきて手伝って! お爺ちゃんが……」
 一階から母さんの声。一度目は面倒で無視したが、今度の声色が逼迫した様子だったから、俺は足早に階段を降りた。
「ちょっと手を貸して。お爺ちゃん、トイレで固まって動かんくなってしもて……」
 トイレの中を覗き込むと、まるで別人かのような男の背中が視界に入った。爺さんは声も発さず、背中からは生気を感じられなかった。そんなことはお構いなしと言わんばかりに、換気扇は通常運転で音を立てて回っている。
 二人で何とか引っ張り出して、床に寝かせた。爺さんは目を閉じていて、口はわずかに開いている。呼吸はかろうじてあるようだ。
「救急車呼ぶわ」母さんは近くの固定電話に飛びついた。「あんたはそばにいといて。翔馬は、まだ寝てるんかな」
「お爺ちゃん、お爺ちゃん……あぁ……」婆さんは少し離れた所で口に手を当てて震えていた。「昨日までは元気やったんよ……テレビ見て、お酒飲んで、いっぱい話してくれてた。それが今日、こんなことになるなんて……」
 十分もするかしないか内に、救急車が到着した。「私も手伝います」と母さんは言ったが、「大丈夫ですから我々に任せてください」と救急隊員の一人は聞き慣れたことのように冷静に応えていた。
「あんたもついて来るか?」
 母さんの投げかけに俺は「いい」と返した。
 何事も無かったかのように俺は二階の部屋に戻る。椅子に腰かけ、二リットルのペットボトルの水をラッパ飲み。これももう要らないか。俺は黒い物体を机の下の奥にしまい込んだ。
 夕方に、家族のグループLINEにメッセージが送られてきた。病院にいる母さんからだ。爺さんが危篤状態になったという。爺さんの写真も添付されていた。ベッドの上で、上半身だけ起こして、力なくダランとしている。目は瞑っている。生々しい。その字面とは真逆に、爺さんは明らかに憔悴していた。まさに、今にも死にそうな気配が写真からでも感じ取れる。
 俺はそこでも、病院に行かないという選択をした。様々な思いが混濁していたが、そういう状態の人間と対面することに怯えてしまったというのがある。人を殺したいと思ったことがある奴が、そんな恐怖に屈していては情けない限りだな、と自嘲した。
 翔馬は行くらしい。ご苦労なことだ。もう危篤なんだから、媚びを売らなくていいのにな。
 父さんの方は返事が無かった。まだ仕事から帰ってないが、きっと俺と同じ思いに違いない。もしかしたら、死に際を見に行く可能性もあるか。
 翌朝、爺さんは息を引き取った。ここたった二日の出来事があまりにも淀みなく、まるで、今日この日に死ぬことが予め運命付けられていて、都合をつけるために死神が手を施したようだった。
 明日が爺さんの誕生日でもあるという事実が、下らない妄想を助長させた。俺は存在不明の死神に感謝した。礼を言うぞ、俺が手を下そうとするより先にやってくれたことに対して。
 それから、どたばたと忙しくなった。人が亡くなった時に忙しくするのは悲しみを忘れるため、というのは聞くが、忙殺という言葉があるように、なるほどと思わされる。
 とは言っても、こちらも負けず劣らずと言うべきか、一先ず葬儀会社、親族への連絡が抜かりなく行われた。俺はそういう非科学的なことに全く興味が無いから、ただあっけらかんとしていた。
 ドラマなどでは通常、家族が悲しみに打ちひしがれて何もできずにいる描写がされるイメージだが、あれは誇張表現だったのか。死人がベルトコンベアで運ばれているのを漠然と眺めている感覚であった。
 人の死というのは、思ったよりちっぽけな事かもしれない。
 俺は、「人の命は尊い」とは正反対の感想を抱いた。生きている人が死ぬことは、特別に見えて至極当然の成り行きなのだ。
 世界中で毎日人が死んでいる。それでも生きている人は平然と生き続けている。痛みなんてこれっぽっちも感じない。俺は死の恐怖を克服できたような感じがして、口元が緩んだ。
 翌日、俺達は葬儀場に居た。俺は家から出るのは一ヶ月ぶりだった。
「この度はご愁傷様です。君、ネクタイの色はそれでええんか?」知らない男が俺に挨拶してきた。
 俺はその一言だけで、かちんと来て、手が出そうになった。「ご愁傷様」というのはインターネット上で皮肉表現として度々使われるからだ。
「ああ、急やったもんやから、ごめんなさいね。おっちゃんお久しぶり」母さんが仲介に入った。
 ブルーのネクタイはかつて就職活動をしていた時の物だ。俺は一言も発さず、ガンを飛ばすような会釈をかまし、その場を去った。
 翔馬も、俺の隣でただ黙って突っ立っていた。こんな所、早く帰りたいよな。こんなことをしても、死人が蘇る訳でもなし。馬鹿みたいに高い金を払って、ただの自己満足に過ぎないんだ。
 弔問客が揃い、儀式が始まった。
「本日はお忙しい中、父、天ヶ崎虎之助の葬儀にご参列頂き、誠にありがとうございます。娘の美鶴でございます。──」
 新型コロナウイルスの影響で、俺達はマスクをしてパイプ椅子に座っていた。全身黒に白マスクというファッションは、どこからどう見ても異常事態だ。それこそ、宗教の集団を形成しているようで吐き気がする。
 母さんの挨拶が終わり、僧侶が読経を始めた。何の意味があるのやら。何も無いのだと俺は思う。こういう、ただ終わるのを待っているだけの時間は、退屈な歴史の授業と遜色ない空虚さを感じる。度々鳴らされる鉦の音は鼓膜が破れそうな程喧しい。
 葬式なんてものをするのは、人間だけだ。葬儀屋も、坊主も、人が死んで得をする商売なんだよな。人が死ぬことで飯を食べている、意地汚い連中なんだ。虚ろな時間が流れる中、俺はまた下らないことで脳を遊ばせていた。
 御焼香の後に、スクリーンが出てきて、何かが映し出された。それは爺さんの写っている写真のスライドショーだった。生前の姿が数秒毎に展開される後ろで、ゆったりとした女性の歌声が流れている。まるで爺さんを慈しんでいるかのような、優しい声だ。これを作ったのは母さんだろう。僧侶の読経よりよっぽど心に響いてくる。
 最後の一枚は爺さんが正面を向いて微笑んでいる写真だった。そういえば、ずっと部屋に引きこもっているから、ちゃんと顔を見るのは久しぶりだ。スラッとした出で立ちで、白髪で、眼鏡をしていて、温和な顔。加えて両手でカメラを構えているその姿は、どこぞの考古学者を思わさせた。
 写真の爺さんと目を合わす。静かな空間に、ピアノの音色だけが響いている。
 途端に、感情の波が押し寄せて来た。史上最大のビッグウェーブ。抑え切れるはずもなく、俺は涙を流していた。自分の本心が分からない。
 正直俺は悔しかった。殺意を抱いていた人間の葬式で泣いてしまった。百パーセント爺さんのことを憎んでいたのなら、喜びで笑顔になるだろうに、この俺が悲しんでいるとでもいうのか。何たる屈辱。
 気が付けば全身も震えていた。パイプ椅子の上でバランスを取るのも意識しないといけない状況。洟を啜り肩が揺れている俺の姿は、隣の翔馬にはどう映っているだろうか。実に情けない、兄として。
「本日はご多用にも関わらず、通夜式へのご参列誠にありがとうございました。──」
 外が薄ら暗くなり、座敷に十数人が残った。テーブルには食事の用意がされている。
「皆さんお疲れ様です。お父さんは『賑やかに送り出してほしい』と言っていました。楽しくやりましょう」母さんの声は空元気のように明るかった。
 テーブルを囲んで思い出話が繰り広げられ、時に笑い声も飛び交う中、俺は黙々と寿司を口に運んでいた。お酒には一切手を付けない。毎晩酒を飲んでいた爺さんを反面教師にしているのだ。酒は百薬の長なんて言うが、アルコールなんて毒でしかない。
 葬式って何なんだ? 死んでから、取って付けたように集まりやがって。そんな都合の良い事があるか。家族でもないお前らが爺さんの何を知っている。爺さんが死んでからこんなことをしても、何の意味も無いんだ。爺さんが死んで、何故こいつらは平然と生きている。
「そこの兄さんと弟さんはずっと静かやなぁ。ほんまに、お通夜みたいや」声の主は、俺にネクタイのことを言ってきた男だった。茶化すような口調だった。周りの人間も、声は出さずとも薄ら笑いを浮かべていた。
 俺はおつまみとして籠に盛られているビニール包みのサラミを一つ掴み、立ち上がって、横の障子に投げつけた。一枡の白い四角にできた黒は、肺に空いた穴にも見える。
 爺さんは長年煙草を吸い肺に癌があった。放射線を当てても、肺葉切除術を行っても、癌は除去しきれず、最終的には脳に転移した。発覚した頃にはもう手遅れだったという。今そんなことはどうでもいい。
「しょうもない。ほら、お通夜やぞ! 爺さんが死んだんや。高らかに笑えや!」俺は手を叩いて言った。
 誰も何も反応しないが、俺は構わず捲し立てる。
「お前ら、笑いに来たんやろ。涙の一滴も流しとらんやないか! 本当に爺さんのことを思ってたんなら、生きてる内に何とかしてやれよ!
 お前ら、何を思ってここに来た? 道中、頭の中で何を考えていた? 『この後何を食べよう』『何時に帰れるだろう』どうせそんなくだらんことやろう。爺さんはどうした? 亡くなった爺さんのことは!
 何がご愁傷さまや。そんな都合のいいことがあるか。お前ら葬式にしか来ん奴は全員カスや。そんな奴は死んだ方がええ。いいや、死ぬべき。爺さんと同じ、あの世へ行け!
 お前らが死んだ時は笑ってやるよ、良い気味だってな。覚悟しておけよ!」
 爺さんが入った棺のいる静寂な空間で俺の声だけが突き抜ける。俺の声は上ずっていた。震えてもいた。
 爺さん、俺の声は聞こえているか? 何かのコントで、死人が生き返って棺から出てくるという話が頭の片隅に残っている。爺さんが生きていたら、「そうや龍一」と言ってくれただろうに。
「特にそこのおっさん。この俺にケチをつけてきたよな。それも二回」
 俺は、もう我慢できなくなった。こいつは絶対に許せない。殺したい。殺す。この男は死ぬまでにまだかかりそうだから、俺が殺してやる。
「お前も、いっぺん死んだらどうや!」
 目の前のビール瓶を掴み、男に向かって振りかざそうとした瞬間。
「おい、龍一。ちょっと来い」父さんに制された。皆、はっと驚いた目で俺を見ている。
 俺は我に返り、茫然と立ち尽くしていた。八つ当たりするみたいに、ビール瓶を勢いよくテーブルの上に置く。近くの小皿やコップがいくつか恐怖の舞を踊った。
「な、何なんや、あの兄ちゃんは」男は威勢が無くなっていた。
「すいませんね。ウチの子達はそっとしておいてほしいんや。ああいう性格やから……」例によって場を整えようとする母さん。
「しかしなぁ。あれやと、職場とかではどうしてるんや」
「それが、まだ就職もしてなくて──」
 俺と父さんは隣の部屋で二人きりになった。俺は壁に凭れてうずくまり、傍に父さんが座った。
「龍一、どうした?」
「なんで皆笑ってる! 人が死んだのに!」
「あのな、お通夜とはそういうもんなんや。死んだ人を笑って送り出してあげるんや」父さんは呆れた様子だった。
「理解できひん」俺はまた感情を剥き出しにしていた。いい年して駄々をこねる子どものようだという自覚は少しあった。
「お父さんも最初はそうやったよ。でも、皆爺さんを笑ってる訳ないやろ。本心では悲しんでるんや。お母さんも、あほみたいな冗談ばっか言ってるけど、誰よりも一番悲しんでるんやで」
「……」父さんの子どもをあやすような語り掛けで、俺の荒々しい呼吸が落ち着き始めていた。
「なんや、爺さんに思うことがあるんか?」冷静になりかけていた矢先、センシティブな所を突かれた。父さんに言われたということがまた俺を刺激した。
「帰りたい」
「はぁ? まだ明日火葬とかやらなあかんねん。あと一日だけ我慢してくれや。頼むわ」そう言い残して父さんは隣の部屋に戻り、俺一人が取り残された。
 やっぱり、人間は気持ち悪い。

  2

「今日は何が食べたい?」そう言ってハンドルを握る母さん。
「肉やったら何でも」二人してシートベルトを着ける。映っているテレビがうるさくて、俺は音量を下げた。
 母さんは定期的に車で俺を連れ出そうとする。俺にとっては余計なお世話ではあるのだが。
「婆さん、かなんわ。急にボケ始めたね」
「爺さんが死んでから今どれくらいやっけ?」
「ちょうど半年やね。前からやったけど、その直後に酷くなったわ」
「老人ホームに入れたらええやん」
「あんた、クールやなぁ」母さんは正面を向いたまま笑った。赤信号で車は停まっている。
 俺は景色には目もくれず、スマホ画面を凝視している。
「介護認定が通らなくてね。要介護三にならなあかんらしいわ。ケアマネージャーと話したりもしてるんやけど」
 母さんは爺さんと婆さんの面倒をずっとみてきた。「あたしは親の世話をするために生まれてきたんじゃない」「自分の時間が欲しい」「あたしも幸せになりたい」そんな母さんの心の底から出る独り言も、むせび泣きも、俺は何度も寝室の壁越しに聞いていた。
 俺にとっては爺さんも婆さんもどうでもよく、母さんだけが心配だった。片方がいなくなって母さんの負担は減るもんだと思っていたが、そうでもない様子だったのが、俺は残念であり悔しかった。
 そして、俺は婆さんのことも憎たらしく感じ始めていた。俺が婆さんを殺せば母さんは幸せになれるんじゃないか、と思うことがある。俺は母さんを楽にしてあげたい。
「でもあんた、犯罪はやったらあかんで。特に、身内をやるのは罪が重くなるらしいから」母さんは、俺の心の中などお見通しだと言わんばかりだった。車はとっくに発進していた。
 なぜ他人よりも身内の方が罪が重いのだろうという疑問を、俺は頭の引き出しにしまい込んだ。
「分かってるわ」ムキになったような言い方をしてしまった。母さんも本気では言ってないと思うが、未熟者扱いされたようで少し心外だった。
「着いたで」ステーキのチェーン店に到着した。婆さんの話題はそこで終了した。
「それはそうと弟のことなんやけどな」母さんは深刻そうな表情になった。「翔馬、大丈夫なんかな。今日も、龍一と一緒にどうやと誘おうとしたら、まだ寝てたし。薬は飲んでるみたいやけど……」
 俺は何も言わず水を飲む。テーブルの上に置いたスマホの黒い画面に目線を落とした。
「やっぱりあたしが間違ってたんかな、子育て。どう思う?」
「うーん、分からん」子育てに正解などあるのだろうか。少なくとも、母さんは悪くないと俺は思う。
「あんたも翔馬の相手してほしいんやけどな。寂しがってるよ。昔は兄弟で仲良く遊んでたやろ。また二人で対戦ゲームとかしいや」
 本当に、なんでこんなことになってしまったんだろう。
「それと、家のことも手伝って欲しい。料理とか掃除とか。時給出すからさ」
「お金とかじゃないから」俺は、家族の一員として何もしていないのか。立て続けにこう言われると己を呪いたくなると同時にイライラも募ってくる。
「せっかく外に出てみたら、こんな話ばっかでしんどいわ」
 ステーキも美味しくなかった。
「そうか、ごめんな。じゃあ帰るか」母さんは寂しそうだった。
しまった。またきつい言い方をしてしまった。一番辛くて苦しんでいるのは母さんなのに。俺は些細な愚痴もろくに聞いてあげられないのか。
 俺は家の前で降ろされた。花壇に植えてある花は、爺さんがいなくなってからどれも元気が無さそうに見える。表の植木鉢の数もみるみる減ってしまった。
「またご飯食べに行こな」
「うん」
 俺は玄関の鍵を閉めた。エンジン音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺にできることは何かないか思考を巡らせていた。

  3

 婆さんの認知症は、どんどん酷くなっていった。ただボケているだけならまだいいのだが、大声を出したり物を投げたりして暴れることがしょっちゅうだった。
 まるで、爺さんが亡くなった悲しみを発散しているようだった。だとしても、家族にあたるのは筋違いだし、そんなことをしたところで何にもならない。
 これが俗に言う「赤ちゃん返り」か。生まれた赤ん坊は大人になり、やがて老いると赤ん坊に戻るという。口が達者な分、赤ん坊より質が悪かった。ボケているのに口だけはよく回るのが不思議で仕方がない。
「あたしの財布が無い! どこいった! お母ちゃーん!」
 また婆さんが徘徊している。二階の自分の部屋を探したり、一階の茶の間の箪笥を開けてみたり。頻繁に階段を上がり降りして、いい運動じゃないか。
 しばらく前に母さんが婆さんを食事に連れて行った時に、婆さんが財布を紛失するという事件があった。財布は結局戻ってくることはなく、婆さんの食費は母さんが負担することになった。
 その日以降か、婆さんは毎日のように財布を探している。うっかり落としたのか、バッグから出したのを戻し忘れたのか知らないが、誰かに盗られたのだ。
「お母ちゃん! あたしの財布が無いんやけど! あんた知らんか?」婆さんは母さんの部屋のドアを勢いよく開けた。
「はぁ? だから何回も言ってるけど、お母さんが外で落としたのよ」
 二人の会話は、二階の俺の部屋まで襖越しに聞こえてくる。
「嘘や! そんな急になくなるはずがない! 十万円も入ってたんやで? あんたら、あたしをだまくらかしてんだろ? 知ってんだ。どうすんの、お金なくて。ご飯も食べられへん。コーヒーの一杯も飲みに行けへんやんか。このままのたれ死ねってことか!」
 下で騒がしい音が聞こえる。また何か投げたのか。
「もう、知らんわ」母さんは面倒が見切れず家を出ていった。
 いつまで経っても家族はバラバラだ。今度は、母さんの方が帰ってくるのが遅くなった。先に帰って来る父さんと翔馬が婆さんの相手をしていた。父さんは爺さんがいなくなってから残業が減った。
 家族六人で笑っていた頃が一番良かった。幸せなんてほんの束の間。いつかみんな不幸になるんだ。

  4

「おはようございます。月子さん、行きましょうか」
「おはようさん。いい天気ですね。今日はどこへ連れて行ってくれるの?」
「いい所ですよ。さぁ、車に乗ってください。美味しいもの食べましょう」
 婆さんは、よその人間には機嫌良く振る舞う。人格を入れ替えているかのようだ。その能力が俺にも備わっていれば、社会でもやっていけたかもしれない。
 認知症には不思議が多い。家での人格と外での人格は正反対だ。まさかこの婆さんが家で暴れ回っているとは、迎えに来ている女性職員には想像もできないだろう。
 月・水・金曜日の週三日は、デイサービスを利用している。老人ホームの入居申請は通っていない。やはり、よその人間に対しては異常無くコミュニケーションができるためか。
 土・日曜日は父さんが婆さんをどこかへ連れていく。文字通り家族サービスだ。平日は平日で仕事があるのに、父さんは黙って引き受けている。いたたまれないが、流石に母さんに全て任せるわけにはいかない。
 婆さんの面倒を家族で負担している状態。みんな嫌な思いをしている。誰も婆さんの世話なんてしたくないと思っている。俺はそこに日本の高齢社会の縮図を見ていた。
 よその家でもこうなのか? いや、天ヶ崎家が珍しいのか。世間は核家族が主流な印象だ。となると、老老介護になるのか。そっちの方が悲惨じゃないか。じゃあ、片方が死んで独り身の場合は? 考えたくもない。
 人間というのは、愚かで惨めな生き物だ。大人になっても、最終的には老いてボケて、死ぬまで他人に迷惑をかけ続ける。俺はああはなりたくない。絶対にボケないぞ。
 そしてそれ以外の日、火・木曜日は母さんの番だった。家事と介護を並行してやるのは明らかに母さんの重荷になっていた。更に、婆さんと母さんは親子でありながら、昔から気が合わなかった。話が上手く嚙み合わないのだ。
 店先で言い合いになることも珍しくなかったという。帰りの車で母さんは、度々後部座席から物が飛んでくるのを耐えながら運転していたらしい。そして家の前でも口喧嘩は止まない。当然、近所に丸聞こえである。
 近くの店で朝食兼昼食を終えて、婆さんは昼過ぎに帰宅する。帰宅してしばらく後にはもう徘徊がスタートする。探しものはいつも、財布か母さんと決まっている。一階、二階、家の前、あちこちを探索する。当然、俺の部屋に入ろうとしてくることもある。

  5

「龍一! 龍一!」
 誰かが騒いでいる声が聞こえる。俺は目を覚ました。騒いでいるのは婆さんのようだ。
 婆さんの声で起きるとは、最悪の一日の始まり方だ。また例のやつかと思われたが、いつもとは様子が違う。仕掛けをしていた襖はこじ開けられていた。俺は徘徊する婆さんが部屋に入ってこないように、襖と襖の間にS字フックを嚙ましていたはずだった。
 婆さんが部屋に入ってきた。俺はまだ布団の中にいる。
「いま警察の人から連絡があったんや。美鶴が車で人を轢いたって」
 大きい声。さっきから、軽く耳鳴りがする。
「克(かつ)亀(き)くんに連絡してくれへんか」
 俺は現実を受け止められていなかった。母さんが人を轢いた?  なかなか寝つけなくて薬を飲んでいると話していたが……まさか、あの日の俺の態度が良くなかったせいで……俺のせいなのか?
「龍一、聞こえてるんやろ。お父ちゃんに電話して」
「番号知らん」父さんに電話したところでどうなるというのだ。
「知らんわけないやろう。あんたのお父さんやで。一大事なんや。はよ、頼むわ」
 だんだんムカついてきた。お前のせいだろうが。皆気を遣って世話をしているが、内心嫌がってるんだ。母さんも「何のためにあたしを生んだんや」と、よく言っていたよ。父さんも、翔馬も、家族全員、お前のことを煙たがっているんだよ。お前は邪魔な存在なんだ。
「何度も言ってるやろ。あたしを無視するのか、龍一!」
 婆さんが俺を蹴ってきた。おう、やりやがったな。もう、何もかもどうでもよくなった。
「うるせえな! ばばぁ!」俺は拳を婆さんの腹に打ち込んでいた。完全に衝動的な行動だった。
「あいた。なんてことするんや」
 婆さんは怯んだ。先に蹴ってきたのはお前だろうが。
 母さんはな、お前らのために尽くしてきたんだ、何十年もな。自分の人生を犠牲にして、我慢して、辛い事苦しい事ばかりで生きてきたんだ。それがこんな結末なんて、許せない。全部お前のせいだ。お前が死ねば、母さんは幸せになれる。俺が母さんを救う。
「死ね! くそばばぁ! 死ねぇ!」
 俺はそれから何度も婆さんを殴り、蹴り、襖を投げつけたりもした。俺は獣と化していた。怒りに支配されている一方で、淡々と作業をこなすような冷徹さもあった。
 婆さんは黙って全く抵抗しなかった。それが孫に対する愛だと言わんばかりに、俺の暴力を受け入れていた。ゲームセンターのボクシングマシーンを相手にしているようで、退屈に思えてきた。
 はぁ、はぁ……。俺は息が荒くなっていた。
 結局、飽きと疲れにより俺は婆さんを痛めつけるのみに終わった。顔や急所は意識的に避けていた。身内を殺すと罪が重くなるという情報がずっと引っ掛かっていたのだ。
 俺はまた自分自身に絶望した。あれだけやって、血の一滴も出ていないじゃないか。何が「死の恐怖を克服した」だ。人を殺す覚悟が無さすぎる。
 俺の心に鬼が宿っていたのなら、この老婆の息の根を止めることなど朝飯前だっただろう。俺は鬼になれなかった。それが酷く情けないと感じた。
 どうやらまだまだ足りないらしい。どうすれば人を本気で殺せるのだろう。躊躇なく、堂々と、人間を殺しきるありったけの殺意が欲しい。途中で速度を緩めずゴールテープを全速力で突っ切るように、鮮やかに殺人のウイニングランを成し遂げたい。
 俺は殺人鬼に憧れの念すら抱きかけている。人を殺せるというのが心底羨ましい。
「あんた、自分が何をやったか分かってるんか!」
「出ていけ! ここは俺の部屋や」
「この家はな、お爺ちゃんが何年も必死に働いて、頑張って貯めたお金で買ったんや。お前らはただ住まわせてもらってるだけや。ここやって元はお爺ちゃんが寝てた部屋やろ。お前はそのありがたみが分からんのか、この罰当たりもん!」
 本当に、口だけは達者だな。調子付いて説教まで垂れやがる。俺は婆さんの一挙手一投足まで憎たらしく感じていた。
「お前は何もしてへんやろ。そばでボーッとしてるだけで。爺さんが可哀想や」
「何を言う! あたしはお爺ちゃんをずっと支えてきたんや!」婆さんはややヒステリックになっている。
「爺さんはな、『もう死にたい。何のために生きてるか分からん』とよく零してたそうや。死ぬ直前まで口喧嘩も絶えんかったやろ。都合のいいこと抜かしてんちゃうぞ」
「あたしも死にたいよ。こんな老いぼれを虐めて、虐待やんか。要するに金だけ置いて死ねってことやろ。分かってんだ、あんたらの考えることなんて」
「じゃあ死ねや。爺さんの所へ、はよ行けばいい。首を吊るでも電車に飛び込むでも、好きにせい」
「馬鹿馬鹿しい。それはそうとアホなこと言ってんと、警察に連絡やな」
 俺は突然現実に引き戻された。しまった。今回は実際に危害を加えてしまったんだ。後先考えずにやったことであるものの、俺が家族に通報されるなんてことは想像もしていなかった。
 母さん。犯罪は駄目って話してたけど、俺はあの時本当は言いたかったことがある。
 ──母さん、もし俺が罪を犯しても、家族は匿ってくれるよな?──
「えーっと、警察は何番やったか」下に降りた婆さんの独り言が聞こえる。
 俺はこれからのことを悲観していたが、途端に笑みが溢れてきた。やはり婆さんは認知症だ。今日のことも、ものの数時間で忘れ去られる。俺は無事。当たり前だ。こんなことで俺の人生が台無しになる道理が無い。俺の人生はまだまだこれから。始まったばかりなのだから。
 しかし、母さんが人を轢いたのは本当だろうか。これも婆さんの戯言であってくれないか。そういえば翔馬はどうした。これだけ騒がしくして、まさかまだ寝ているわけではあるまい。
 俺は部屋を覗きに行ったが、翔馬の姿は無かった。ベッドの上には精神科の領収書が雑に置かれている。ペットボトルのお茶は少し減っている。母さんと一緒なのか。
 玄関がガラガラと開いた。「じゃあそういうことやから。今日貰った薬、忘れず飲んでな」
「美鶴! あたし龍一に殴られた! 警察呼んで!」婆さんが母さんに押し掛ける。
「何言ってんの。龍一がそんなことするわけないやろ」
「嘘でこんなこと言うかいな。ほら、あたしの体見て。痣が出来てるわ!」
「お婆ちゃん落ち着いて。お母さんはまだ用事があるから」翔馬が応戦する。そうだ、皆俺の味方なんだ。
「ほな、あんた頼むわ。にしてもあんたのお兄ちゃん、おかしいで。昔はあんなんちゃうかった。ほんまに、人が変わってしまったんか」
「ここ近所に丸聞こえやから、茶の間行こう」二人は奥の部屋に移ったようだ。俺は二階の階段からひっそりと成り行きを眺めていた。
「龍一、車乗るか」母さんに誘われた。気付かれていたみたいだ。
「車って、事故ったんちゃうんか」
「ああ、あれはな、真っ赤な嘘や」冗談みたく言う母さんに、俺は聞こえるように溜息をついた。
「はぁ? なんやねんそれ」
「それで、どうするんや。あんたとも話がしたいんやけど」
「わかったわ」俺は機嫌悪そうに応えた。実際、イライラしている。どのみち今は家に居辛い状況だ。俺は速やかに車に乗り込んだ。
「何があったか説明して」
「いや、何にもないで。あたしが警察のフリして婆さんに電話しただけ。憂さ晴らし」母さんはその時を再現し始めた。
「もしもし、警察です。天ケ崎さんですか。今朝お宅の美鶴さんが車の運転中に人を轢きましてね──」
 あからさまに声色を変えているのが滑稽で、つい吹き出してしまった。これに引っ掛かる婆さん、更にそれに踊らされる俺も愚か者だ。オレオレ詐欺なんてものが蔓延るのも理解できる。
「こっちも大変やったんやで」俺にまで被害が及ぶことを想定出来なかったのか。翔馬も、一緒に居るなら止めてくれよ。
「悪かったな。あたしもストレス溜まってるんよ。昨日もな、婆さん。夜中にあたしの布団入ってきたと思ったら、何度も蹴られて。あたし、追い出されてちっとも寝れんくて。こういうことでもせんと」
「俺、婆さんを殴ったよ」
「え……? あかんよそれは。それこそ警察に捕まるから。やめてな。前にも言ったけど、身内を殺すと……」
「もう、無理や。このままやとほんまにやってしまう。かも、じゃなくて本当に。俺、調べたけど要介護二でも入れるとこあるやん。施設に入れな、母さんも身が持たへんって」
「あたしも色々やってるんやけどな。克亀くんが動いてくれへんのよ。このところ帰ってくるのも遅いし、あの人あかんわ。でも、ほんまにいいんかな。老人ホームになんか入れて、悪い気するわ」
「まだそんなこと言ってる。自分を犠牲にするのはもうええから。何のために介護士がいるんや」
「そやな、ありがとう。けどそんなすぐには出来ひんからな。もう少し辛抱してな」
 良かった。確実に前に進んでいる。天ケ崎家の幸せな未来へ。
「龍一、ウチらもボケたら、面倒見てくれるか?」
 矛先が俺に向けられた。またこの流れか。「やめてや。二人ともまだまだ元気やろ」
「分からんよ。お爺ちゃんも急に亡くなったからな。まぁ、何回も手術して肺が半分になってた訳やけども」
「車運転できてそんだけ喋れたら、ボケへんやろ」
 実際、父さんも母さんも認知症になった姿など俺には想像もつかなかった。しかし、何の根拠も無い。思考を放棄してるのだろうか。
「確かにな、そうやとええんやけど……。龍一。翔馬もあんな状態やし、あんたが頼りなんや。ウチらを老人ホームに入れるつもりはあるんか?」
「……分からん」そんなこと急に言われても。さっきまで婆さんの話だったのに。
「ほら、分からんってことはあるんやんか。あたし心配なんよ。自分のこともやけど、あんたのこともな。あんた、この家の跡取りやねんで」
 歳を取るとやはりマインドが後ろ向きになってしまうのだろうか。俺は将来について考えたことがあまり無い。分からないことを考えても意味が無いからだ。試験中に分からない問題に出くわしたら、切るのが定石だ。俺は時間を浪費したくない。新型コロナウイルスだって、事前に予測できた人間がいたか?
 そんな俺はまさに今、分からない問題について考えていた。果たして親を老人ホームに入れることは悪なのだろうか。そこはそんなに刑務所のような所なのだろうか──。
 帰宅してみると、家の中は穏やかそうだった。
「おかえり」玄関で婆さんに話しかけられた。
「ただいま」俺は無愛想に返事する。
「どこ行ってきたん?」
「買い物とか」なるべく話を長引かせないように俺は最低限のことしか答えない。
「ふーん。お母ちゃんは?」
「駐車場に車置きに行ってる」婆さんは母さんがどこにいるかを漏れなく尋ねる。かくれんぼだとしてもしつこい程、玄関を開け閉めしたりして徘徊しているのも、母さんを探しているのだ。
 俺はそそくさと階段を上がり自分の部屋に入った。婆さんは怒っている様子は全く無かった。やはり忘れているんだ。世の中にはボケたフリをする老人もいるらしいが、あれほどのことがあってこうならば、間違いなく本物だ。
俺は疑り深かった。その相手がたとえ家族だとしても。

  6

 俺はあの一件以来、火・木曜日はネットカフェに居場所を移すことにした。それは物理的にも精神的にも「逃げ」の一手であった。
 家族には本当に申し訳ないと思う。でもこれしかなかった。今度婆さんと衝突したら、高確率で殺してしまうだろうと直感していたから。婆さんとの接触を回避することが俺にとっての最善手であった。婆さんを殺すよりはネットカフェに居た方がマシなのだ。
 俺は、自分が異常者であることを自覚している。就職もまともにできない。社会に馴染めなかった。人間の輪に入っていけなかった。
……違うな。人間と関わりたいという意思が端から無かったんだ。面倒臭いし、無駄に神経を擦り減らすだけだし、もういい。人と何かすると、ドッと疲れてしまう。昔はこうじゃなかったのにな。
 朝六時頃に起床し、父さんよりも早く家を出る。寝ている家族を起こさないように、戸の開閉にも注意を払い出ていく。最低限の物だけをズボンのポケットに入れて、マスクを着け、寒いから上着も忘れずに。
 気が付けば年も変わって小正月も過ぎていた。俺は「あけましておめでとう」の言葉を憎らしく感じていた。ウチにはめでたいことなんて何一つ無い。
 長らく引きこもっていた分、外を歩くのは心地良かった。陽の光は少し眩しい。時折吹く風がひんやりとする。人も車も通らない静かな道は俺の心を落ち着かせた。
 なんて呑気なことを考えているが、俺が向かっている先はネットカフェだ。学校でも会社でもなく、ましてやどこかの遊び場でもない。そのどれでもなく、真逆の雰囲気、陰鬱とした空気に包まれた場所。
 カフェなんて名前が付いているが、そこはどことなくどんよりとしていて脱力感を覚えた。俺は個室を希望し、店員に渡された紙に書かれた通り、五十九番の部屋に入った。
 ここのネットカフェは百近い個室があるようだ。この薄い壁で区切られた狭い部屋の一つ一つに、人間が入ることになる。俺は真っ先に家畜を連想した。
 平日のこんな時間に、こんな所にいる人間はどんな人種なんだろう。主婦達や老夫婦が談笑している姿や、コーヒーを飲みながら新聞を読むサラリーマンなどは見る影も無い。当たり前だ。そんな「優雅」とは正反対の所なのだから。
 実際に聞こえてくるのは、中年男のくしゃみや咳払い。言うまでもなく、不快だった。
 個室を出てトイレや本棚に行く際に、俺と同年代くらいの男や女にもすれ違うことがあった。皆何か「訳アリ」という雰囲気で、謎の親近感を覚えた。
 ともかく、夕方くらいまでここで時間を潰さないといけない。家族が相手をしている間は、婆さんは俺の部屋に入ってこないから。
 やることといえば、漫画を読むくらいしかなかった。ネットを見るよりも、別の世界に没頭したかった。本棚の上の段から、目についた作品を片っ端から読み進めていく。
 ネットカフェでの生活は、飯の安っぽい味に目を瞑ればそれなりに快適でコスパが良かった。漫画一冊あたり数十円で読める計算だ。ドリンクバーも充実している。俺はよくコーラを飲んでいた。気が紛れ、嫌なことは意識の外に追い出せていた。
 一か月程が過ぎた。俺は週に二回、それも長時間滞在しているから、ネットカフェの会員ランクが一気に最高にまでなっていた。ランクが高い程割引がつくらしい。そして月の利用料金が一定額を超えないと、ランクは下がっていくという。向こうの思うつぼだな。尤も、俺がここに来るのはそんなケチ臭い理由ではないのだが。
 婆さんの様子は、悪い意味で相変わらずだった。「ラジオが聞こえへん」と言って、夜中にわざわざ父さんを起こして機械を見てもらったり。原因はいつも、イヤホンが外れているから。父さんの大きい溜息を聞くのが苦しかった。
 絶対にこのままじゃいけない。真綿で首を絞められて、家族は崩壊してしまう。首を絞められるべきは、婆さんだろ。
殺さないと駄目か。爺さんはスムーズに逝ってくれたのに。女は色々な意味でしぶといイメージがある。「憎まれっ子世にはばかる」とはよく言ったものだ。
 老人ホームの人間も、とっとと入居させてくれればいいのに。そんなに混雑しているのか。中に一人も入れない程ギュウギュウ詰めか。そんなに日本は手に負えないくらい老人だらけなのか。
 やっぱり、俺の手でやるしか……。誰もやらないのであれば……。
 ちょっと今日は普通の漫画を読む気になれない。仲間を増やして、敵を倒して、ハッピーエンド。そんなワンパターンな展開はもう飽き飽きしている。何かないだろうか。普通じゃない漫画。できれば、救いようの無い暗い話を希望する。
 そこで目に留まったのが、『闇金ウシジマくん』だった。や行なだけあって奥の本棚の一番下の段に埋もれていた。いいじゃないか。こういうのだよ、俺が求めていたものは。いつか読もうと思っていた作品だ。
 ネットカフェで『闇金ウシジマくん』を読むのは実に滑稽であった。この場所に居るようなキャラクターがよく登場するからだ。なんなら俺そっくりの奴もいた。そのリアリティは、ノンフィクションなのではと疑ってしまう程で、普通の漫画の何倍もゾクゾクした。
 俺の「隔離生活」は続き、次の木曜日。また続きから読み始める。あるシーンで、ボールペンを思い切り相手のこめかみに突き刺して殺す描写があった。それが俺にとって衝撃的だった。
 ボールペンは、俺の殺人のハードルを下げてくれた。考えたこともなかった。ボールペンなんかで人を殺せるんだ。人って、簡単に死ぬんだ。
 一見何の変哲の無いものでも凶器に化けることがある。それは物でも言葉でも一緒。凶器になり得るものは身近にたくさんあるのだ。たとえその使い方が本人の意図しないものだったとしても。
 俺は殺人について考えることが習慣になっていた。脳内で人を殺すのをゲームのように楽しんでいた。誰を殺すか。何で殺すか。どこで殺すか。どのように殺すか。なぜ殺すか。そこにはれっきとした殺人の哲学があった。

  7

「そんなこともあったなぁ」
 俺はまた母さんのドライブに付き合っていた。閑散とした並木通りは銀杏や紅葉で彩られ、かえって哀愁を漂わせている。
「婆さん、向こうで元気にしてるみたいやで。あんたも面会行くか?」
「いい」
 あれから数か月して、婆さんは老人ホームに入った。いや、入れられたというべきか。それは騙し討ちといって差し支えない形であった。職員にも協力してもらったという。悪く言えば加担か。こういうケースは少なくないのだろう。まぁ、あそこへ入りたくて入る人などいないか。そう考えると、益々刑務所のように思えてくる。
 婆さんは何か悪い事をしただろうか。長生き……? 長生きをして、周りに迷惑をかけてはいた。それで、あそこへ入れられて暮らしている。
「何のために生きてるか分からない」という爺さんの言葉が呼び起こされた。婆さんは、老人は、何のために生きている? 言ってしまえば、もう用済み。死を待つのみの存在ではないのか。それが、介護というある意味の雇用を生み、お金を注ぎ込まれ命を支えられている。
 俺はこの状況をとても不可解に思っていた。老人にではなく、これからがある若者にお金を使うべきだろう。
 世の中はおかしいことだらけだ。
 母さんは、婆さんに会いに『スマイリー・ガーデン』に足繫く通っているらしい。
父さん、母さん、俺、翔馬が入っている『月子を守る会』という名前のグループLINEでは、主に母さんが頻繁にメッセージを送っている。今日の天気からスーパーで買った物、晩御飯のメニュー、果てはニュースや政治の話まで。もはや『美鶴の日記帳』として使われていた。
 そこに載せられる写真では、婆さんは笑っていた。あそこが最高の場所なのか、かつての最高を忘れてしまったのか。はたまた何もかも忘れているのか。
 婆さん。俺、あんたを何度も殴ったんだよ。殺しかけたんだ。覚えているか? 俺は覚えてる。忘れようとしても、胸に刻まれて一生忘れられない。手の感触が蘇ってきそうだ。あぁ、俺、確かに婆さんを殴ったんだって。
 たまに夢に出てくる。そんな夢で起きた朝は最悪だ。あんたの孫はそんな男だ。俺はそんな人間に育ったよ。
 母さんと婆さんが並んでいるツーショット。婆さんの目の奥を見ると、どこか悲しい。楽しいのか……? 本当に幸せなのか……? 家族と隔離されて、どんな心境で過ごしているのだろう。
 俺はそんなこと考えたくも無かった。家族と言えど、自分以外がどうであろうがそこまで興味が無い。俺は俺で忙しいんだ。あんたはもう充分生きただろう。それこそ寿命だよ。天寿を全うしな。
 頻繁に面会へ行く母さん。俺から見ると、罪滅ぼしをしているようにも感じる。婆さんは、母さんがあまりにも面会に来るので、他の入居者から羨ましがられているそうだ。
 爺さんは同じくらい大事にされていただろうか、とふと思う。
 何で俺は爺さんのことを考えている?──
 今日はハンバーグ店に来た。またしても肉。よくよく考えれば、大半の飲食店が肉料理ではないか?
 中に入り、アルコール消毒を済ませ、席に着く。
 俺は、卵の乗ったサラダ付きのハンバーグを注文した。よく頼むものだ。最も必要な栄養素はタンパク質。それと食物繊維も重要だ。
「翔馬、また鬱が続いてるんよ」
 俺は、翔馬の話を母さんを経由して聞く。自分でもどういう訳だか、翔馬とはかれこれ十年ほどまともに会話をしていない。
「そもそもこうなったのも中学受験の失敗がきっかけで――」
 この話は何回も耳にしているのだが、もう止めるのも面倒で軽く聞き流すことにしている。それより母さん、認知症の兆候が出ているが大丈夫か。
「友達と同じ所へ行きたいと翔馬が言い出して、直前で志望校を変更して、結局翔馬だけが落ちて――」
 最悪のパターンじゃないか。当時俺はそんなこと聞いてなかったぞ。絶対に止めていたのに。
「出来たらあんたと同じとこ、一緒に通わせたかったけどな。翔馬は勉強が嫌いやったみたい。ほら、覚えてる? 机に座って、翔馬は消しゴムで遊んだりして塾の宿題が進まない。隣の机であんたは早々にやること終えて、ゲームしたり音楽かけたり。あんたもあかんでアレ」
 そんなこともあったな。塾に通い詰めの翔馬は苦しそうだった。
「あんたは凄いよ。あの京安へ行ったんやろ。入りたくてもなかなか行けへんねんで」
 今こんな有り様だけどな。
「それで、滑り止めには受かったから、そこに通うことになったんやけど、そっからも大変で――」母さんはコーヒーをゆっくりと一杯飲んだ。
「虐められてたのよ、一年以上も。靴を隠されたり、お弁当箱をクラス中に回されたり、階段で押されたりもしたって……。クラスメイトも笑って見てた。担任も、現場に居たけど目を背けてたって。あの子、ずっと我慢して、黙って、独りで耐えてたの。あたし、ちっとも気付いてあげられなくて、それがほんまに情けなくて……」
 何度聞いても心が痛くなる。
「……殺したいよ」
「……え?」
「翔馬を虐めた奴。翔馬、今でもそいつのTwitterを監視してるらしいんや。そいつは今大学生。精神科に行く羽目になった翔馬とはえらい違いや。何で虐めた人間の方が、のうのうと生きてるんや? それが心底許せんくてな。あんなんは死んだらええんよ。人の人生狂わせといて、生きる価値無し」
「俺が殺していいか?」とは言えたものじゃなかった。というか、飲食店でなんて話をしているんだ。俺は周りの視線を気にしたが、雑音が多く聞き耳を立てている者はいないようだ。
「学校にも結構クレーム入れに行ってるんやけどな。ついこないだも、車で通りかかったから怒鳴り込みよ。で、その担任呼び出して、文句言ったものの、空返事やったな。これが隠蔽ってやつか。おかしいで、あの学校も。ほんまはこういうの男がやる事やけどな。克亀くんも手伝ってほしいけど、あの人は動かんやろ。まぁ何年も前のことやから、証拠が無いしなぁ。翔馬が録音でもしといてくれたらよかったんやけど」
 俺は、内に沸々と湧き上がってくるものがあった。殺意だ。翔馬が不憫で仕方がない。聞いてるだけでも苦しくなる。実際にそういうことをされたお前は、得も言われぬ辛さがあっただろう。いや、これは過去ではなく現在もまだ続いている苦痛。
 まだ終わっていなかった。爺さんが死んで、婆さんが老人ホームに入っても、まだ家族は不幸のまま。母さんもやっと負担が無くなったと思ったら、翔馬のことで延々と悩まされていた。いい加減、終わらせてやる。兄として、跡取りとして、この俺が救ってやる。天ヶ崎家は幸せになるべき。そして、要らない人間は死ぬべきだ。
 ずっと退屈だったんだ。ついに俺に人を殺す正当な理由ができた。やりがいのある、楽しめそうなゲームを発見した。
 今日のハンバーグは美味しかった。余ったデミグラスソースと焦げたポテト一本だけが鉄板の上に残っていた。

  8

 結局あの日、母さんには俺の意志は言わず終いになった。言った方が良かったのだろうか。
 母さんは間違いなく反対するだろう。そうなると、俺のせっかくの殺意が弱まってしまう。余計なことはしたくない。これで良かったんだ。
 とはいえ、俺は奴のことを何も知らない。翔馬には話さないとな。
 隣の部屋からテレビゲームの音が聞こえる。ちょうど起きてるようだ。『大乱闘スマッシュブラザーズ』。カービィらしき声がよく聞こえる。翔馬はカービィが好きなのか。
 俺は水を飲み、二度深呼吸をした。弟と話すというだけなのに緊張する。翔馬とちゃんと喋ったのは十年以上も前か。同じ屋根の下で暮らしているというのにな。異常が日常になっていた。向こうは俺をどう思っているのだろう……?
 話し出しはどうするかのシミュレーションを終え、扉を開ける。
「よう、ちょっと今いいか」
 翔馬はささっとゲームを中断し、こっちを向いてから言った。「いいよ」
「ちょっと、久しぶりに会話するか」ベッドの傍に座る。俺は照れ臭かった。
「会話、ね。不思議な感じ。ほんまに久しぶりやね」
「ああ。なんかもう、あんま覚えてへんけどな。お前が受験する辺りからやったか、遊ぶこともめっきり減った気がする」
「たぶんそこやわ。僕は兄さんみたいに勉強ができんかった。いいなぁ、京安」
「まぁ、全然おもんなかったけどな。ガリ勉の集団や。皆勉強の話ばっか。腹の探り合い。それが気色悪うてな、誰にも心開かんかったよ。分かるか? クラスの半分が医学部志望なんや。親が金持ちというだけで、大した苦労もせずぬくぬく育てられて、死と隣り合わせになったこともない、そんな奴らが『医者になりたい』『命を救いたい』って言うんやで。笑えるやろ?」
「そんなとこやったんや……。僕には想像もつかんよ」
「極めつけは、あの学校恒例の合宿があってな。夏休みに山に籠もって、ひたすら勉強させられるんや。食事も肉は無いし、質素なもんしか出ん。生きた心地がせんかったよ。あんなん、刑務所と何も変わらんで」
「僕、何も知らんかった。兄さんは黙ってそんな苦しいことに耐えてたんか」
「翔馬、俺がこんな話してんのは、俺も苦しい思いしてたから同情してほしい訳でも、お前も我慢せいって言う訳でも決してないで。俺も苦しかったから、お前の痛みが己の事のように響いてくるんや」
「兄さん……」
「今まですまんな、お前に構ってあげられんくて。それで、本題やねんけど」俺は足を組み替えて胡座をかいた。「お前を虐めていた奴の名前を教えてくれ」
「え……?」翔馬は声が上ずり、驚いた形相を俺に見せた。「なんで?」
「そいつを殺そうと思う」俺は何食わぬ顔で言った。覚悟は既にできている。
「殺すって……ちょっと待って」
「どうした。俺がやるんやで。お前は何もせんでええ」
 翔馬は黙っている。何か言葉を探しているようだ。
「お前、まだそいつに執着しとるらしいやんか。何してんねん。やめい、そんなんに時間使うんは。治るもんも治らんやろ。俺が始末してやるから、そのカスみたいなウイルスを。そろそろ前向きに生きようや。母さんもお前で悩んでるんやって。俺は皆に幸せを取り戻したいだけなんや」
「違うんやって。殺したらあかんねん」
「なんでや。まさかこの期に及んで、犯罪やからとか抜かすんやないやろな?」俺は冗談交じりに言ってみた。
「あいつを殺すことは僕が一番考えたよ」翔馬の声が強くなった。「あいつのTwitterを四六時中監視してる程やからね。どうやって殺そうか、頭の中があいつのことばっかで、嫌になるほど脳味噌を使ったよ。でも、無理なんや。どうやったって証拠が残る。警察が死体を嗅ぎ回り、最終的には犯人を突き止める。ハイエナのようにね。推理小説を読み漁っていた兄さんなら分かるやろ? おまけに、僕には人を殺す度胸も無いんや……」翔馬は語気が弱くなっていき、顔を下に向けた。
「なんや、そんなことかいな。よう分かるで、翔馬。やけどな、そこに俺の脳味噌を使ったとしたら、どうや?」
 翔馬は顔を上げた。俺は、一緒にゲームで遊んでいた時の翔馬の期待に満ちた顔を想起した。
「俺は確かに推理小説を多く読んできた。しかしな、影響され過ぎなんは翔馬の方とちゃうか? 小説で犯人が暴かれるんはな、小説やからや。犯人は必ずミスをしでかす。それはそうせんと話が進まんからや。でも現実は小説とはちゃう。未解決事件が結構あるやろ? 日本の警察は優秀なんかもしれん。それでも解けへん問題がある。百点満点は取れへんっちゅうことや」
 そう。警察も人間だから。万能ではない。人間は不完全な生き物なのだ。
「そっか……。やっぱ兄さんは凄いよ。心が軽くなった気がする」
「そうか。まぁこうして話して気が紛れてくれるだけでも良かったわ。ほんで、そいつの名前を教えてくれんか?」
「うん。カワジ……カワジヨシハル」
「どういう字を書くんや?」
「三本の川、地面の地、正義の義、季節の春」翔馬は指で空に字を書いてみせた。
「川地義春、か。できたら顔も知りたいんやが、写真とかあるか?」
「持ってへんけど、有名人で言うと〇〇に似てるわ。あ、Twitterに写真載せとった気がする」
 俺は川地義春のTwitterアカウントも教えてもらった。
「よし、こんだけで上出来や。いっちょ始末しとくわ」俺は害虫駆除の感覚で言った。
「ところで、どうやって殺すん?」
「今それ言ったらおもんないやろ」
「気になってまうなぁ。それに、色々心配やし」
「大丈夫や。この家に警察が来ることすらあらへん。家族に迷惑かけんようにすんのは大前提やからな。まぁ、実はまだ方法は決まってへんねんけどな」
「それは良かったけど……。まだこれからってことか」
「おう。そんな明日明後日にできることじゃないしな。計画を立てんと」
「あと、もう一つ気になることがあるんやけど……」翔馬は口ごもった。「僕、何回か見てるんよ。最近で言うとほら、爺さんの葬式の時に、兄さん……」
「あぁ、それな」さすが翔馬だ。俺の弱点を把握している。
「そのせいで計画が破綻したりせえへんか?」
「お馬、俺のことちゃんと分かってるやないか。アレはな、どういう訳か自分でもコントロールできんのや。理性のブレーキが効かんくなるというか。はは、やっぱおかしいんやろか。でもな、端から想定しておけば問題無いんや。初めから何が来るか分かっていれば、ああはならん。そのためにも、それ込みで計画を練る必要がある、綿密にな。それでももし俺がヤバくなりかけた時は、翔馬、お前に止めて欲しい」
「分かったよ。僕は兄さんの力になりたい」
「その言葉、兄として嬉しいわ。今日のことはお前にしか話してへん。父さん母さんにも、誰にも黙っといてくれ、ややこしくなるから。俺らだけの秘密な」
「うん。約束する」
「復活したな。兄弟の絆というもんが。また何かあったら言うわ」俺はそう言い残して翔馬の部屋を出た。十年ぶりの兄弟の会話は、殺人の話だった。
 さてと。俺は自分の部屋に戻り机に向かった。川地義春、ねぇ。俺はキーボードを玩具のように叩き始めた。

  9

 オレは、将来に不安を抱えていた。アルバイトをしても一時間に千円も貰えない。就活も上手くいってない。大した大学にも行ってない。趣味といえば、ゲーム、漫画、酒。テキトーに講義を受けて、友達とくっちゃべって一日が過ぎていく。何なんだろう、オレの人生。こうしてわけも解らず、周りに流され歳を取り、老いて死んでゆくのだろうか。
「最近どんな感じ?」友達の第一声。
「どうって言われても、ぱっとせんなぁ」
「貯金とかしてるん?」
「いや、全然貯まらんわ。なんとかならんもんかね」
「じゃあさ、ヨッシー。投資のセミナーがあるらしいんや。今度行ってみようや」
 そんなある日、友達に投資セミナーに誘われたのだった。定員があったのでオレは早めに申し込んだ。
 そうして今、オレはスーツに身を包んで市内の某ビルの前に来ている。投資には元々興味があった。これをきっかけに始めてみようかな。オレは内心期待が高まっていた。
 誘ってきた彼の姿は見えない。先に行っているのか。中に入ると思ったより広い。辺りをキョロキョロと見回していると、受付にいた女性が話しかけてきた。
「どうなさいましたか?」
「あ、えっと、この投資セミナーに来たんですけど」オレは友達に貰っていた案内の紙を見せた。
「あー。お名前を教えて頂けますか?」
「川地義春です」
「川地義春さまですね」女性はPCを操作している。「かしこまりました。では、四階の四○五会議室へお進みください」
 エレベーターで四階に着くと、フロアはシーンとしていた。人の気配が無い。早く着きすぎたか。オレはスマホを確認した。十時五十分。いや、別にそんなことはない。四〇五会議室は奥にあった。扉は半開きになっていた。
 中に入ると、やはり誰もいなかった。流石におかしくないか。確かに女性はここに来てくださいと言っていた。四〇五会議室。聞き間違えようがない。不気味な感じがする。セミナーなんて本当にあるのか……?
 帰った方がいいかもしれない。そう直感し踵を返そうとした瞬間、カチャリという音がした。振り向くと、扉の前に男が二人いた。全身に黒を纏い、白いマスクをしている。その黒は、まさに暗黒というべく、一縷の明るさも無い色で、闇のオーラを放出している。
 しばらく、いや、ほんの数秒かもしれない。お互いにじっと睨み合っていたところで、一方の男が口火を切った。
「席に着いて頂けますか」
「すいません、帰りたいんですけど。何なんですかこれ」
「ウチの者があなたとお話したいと申しております。すぐ終わりますので、お願いできますか?」
「誰なんですか?」
「それは……名前を言っても分からないと思いますけど、あなたに関係のある人です」
 どういう意味なんだ。「あの、帰らせてもらえませんか。私、用事があるんですよ」
「用事……? それは変ですね。あなたは投資セミナーに参加するためにここへ来たんでしょう」
 くっ、嘘は通用しないか……。こいつらにもオレの事は把握されているのか。
「ですから、その投資セミナーに参加する予定なんです。ここでやるって聞いて来てみたら、誰もいないじゃないですか。どこなんですか、本当の場所は」オレは声を荒げていた。
「ふっふっふ」もう一方の男が笑い出した。「そんなものは最初からありませんよ、残念ながらね」
 なんだと? そもそもオレはこの情報を、友達から聞いたんだぞ。「どういうことなんですか。私を騙したんですか、あなた達は」
「結果的には騙したことになりますね。申し訳ありません。ですが、悪い話ではないんですよ。お話をしていただくだけです。そうしたら鍵も開けますから。すぐ終わると思いますので、さぁ」男は手の平を並んでいる椅子の方へやった。
「……すぐ終わるんですね、分かりました」抵抗しても無駄なようだ。俺は男達の言うことに従った。
 目の前に巨大なスクリーンが用意された。男はスマホで何やらメッセージを送っているようだ。直接話すわけではないのか。リモート面接とは全く毛色の異なる緊張が俺に走った。
「こんにちは。そして、はじめまして」スクリーンに人が映った。笑っている、嘲笑しているような黒い仮面を付けている。声は加工が施されていた。
「そなたが川地義春か。マスクを外したまえ」
 オレはマスクを外し机に置いた。「誰なんですか、あなたは」
「我の名は、メビウス」
「メビ……ウス……?」想定もしていないカタカナが飛んできて、オレは混乱した。
「本当の名前を教える訳無いだろう。こうやって顔も隠しているのだから。言っておくが、この仮面を取ることは決して無い」
 本当に何なんだこいつは。全く掴み所が無い。
「どうした。緊張しているのか。そんなにかしこまらなくていいのだぞ」
 オレは深呼吸をした。
「で、話って何だ」敬語を使うのも辞めにした。
「ほう。……そうだな、早速本題に入ろうか」
 オレの表情を眺めているような間があった。オレの方からは仮面の男の顔が一切見えない。一方的に吟味されている感覚。
「そなたは、天ケ崎翔馬という人物を覚えているか?」
「……いや。聞いたことがないな」
「とぼけても無駄だ。我はそなたのことが手に取るようにわかるのだ」
 オレは軽く舌打ちをした。「あぁ、覚えてるよ。オレが昔虐めていた人間だ」
「ふふ、それでよい。今、彼がどうなっていると思う?」
「どうって……」オレは考えたことも無かった。
「彼はそなたに虐められた後、学校に行かなくなり、今も精神病院に通っている。薬漬けにされて一日の半分以上はベッドの上。あれから十年だ。十年ずっとその状態。彼はそこで時が止まったままなのだよ」
 オレは鼓動が早くなっていた。心臓がズキズキ音を立てている。
「そなたは、一人の人生をぶち壊した」
「し、知らねぇよ。オレは悪くない」
「ほう」
 仮面の男からは感情が読み取れない。
「だいたい、その情報は証拠があるのか。でたらめじゃないだろうな」オレは精一杯の抵抗をした。苦し紛れなのは自分でも分かっている。
「ふっふ。話が分かると思ったが、まだそんなことを言っている。根拠があるからこんなことをしているのだよ。これは、天ヶ崎翔馬の兄からの依頼でね。なんなら、翔馬君の診断書を見たいかね、十年分の」
 オレはうなだれた。何も言えない。
「観念したまえ。そなたは袋の鼠だ。そなたがいくら事実を隠そうとも、やられた本人は必ず覚えている。決して記憶からは消えない。そなたがそういうことをするのは、駄目なことをした罪悪感の裏返しでしかない。本当は感じているのだろう? 自分のしたことの罪を。……投資セミナーなんてものに釣られるのだから、そなたは、今の自分に満足していないのだろう?」
「お前、オレの友達も利用したのか」
「友達? ああ。別に誰を経由しても良かったのだよ。同じサークルの人間でも、バイト先の人間でも、Twitterのフォロワーでもね。人は必ず、誰かと繋がりを持っている。絆とでも言うのかな、はっは。……そんなことはどうでもいい。
 我も満足していないのだよ。不満なのだよ、今の世の中に。そうだろう? 天ヶ崎翔馬が何か悪い事をしたか? 何もやってないのに彼は不幸になった。一方でそなたはどうだ。人を病院送りにしておいて、こうして今も何不自由なくのうのうと生きている。挙句の果てに言い逃れ。
 信じられないね、こんなことが許される社会が。我は憤りを感じている。絶対に間違っている。我は決めたのだ、誰も裁かないのなら、我が手を下すと。川地義春、そなたには死んでもらう」
「なに? ちょ、ちょっと待ってくれ!」オレは震えていた。オレが、死ぬ……?「オレが悪かった。殺さないでくれ!……命だけは助けてほしい。彼の家に謝りに行くから。お金も用意するから……」オレは必死に何度も頭を下げた。
「もう遅い、愚か者が! そんなことで十年が戻ってくるか。今の言葉でよく分かったよ。そなたはとことん自分中心の人間だ」
 くそっ、死んでたまるか、こんなところで。オレは辺りを見回した。扉には鍵がかかっている。しかし窓ガラスを割れば脱出できるかもしれない。オレは雄叫びを上げながら、窓に向かって突進していった。
「おい、そいつを取り押さえろ。アレを使え」
 パリーンという音を期待していたが、思ったよりガラスは厚く鈍い音に留まった。体当たりして、窓は割れたが、身体が通れるほどの大きさは開かなかった。反動で身悶えしているところを男二人に押さえられた。
「離せ! くそぉ!」
 男の一人が、黒い物体を身動きの取れないオレの首にかざした。バチバチッという音とともに激烈な振動が俺の体内を駆け巡った。意識が無くなる寸前、仮面の男が高笑いしている気がした。

  10

 よし、明日の予習も終わった。わたしは教科書とノートを机の上でトントンと揃え、鞄の中に入れた。
 玄関がガラガラと開いた。もうこんな時間。わたしは部屋を出た。「おかえりなさい、お父さん」
「おぉ、ただいま。外に何かでかい荷物届いてるけど、邪魔やから片付けてくれんか」
 荷物……? そんなもの頼んでないけど。もしかしてわたしのファンが送ってきたのかしら。外に出ると、ダンボールが視界を塞いでいた。確かに、一メートルはある。
 わたしは部屋にカッターを取りに戻った。あのダンボールを運ぶのは大変そう。奥で両親の話が聞こえる。
「お疲れ様。今晩はシチューよ」
「へぇ、いいな。いやぁ、今日も色々あってなぁ。ビールくれへんか」
 わたしはカッターを手にして再びダンボールと対面した。それはまるでわたしの前に立ちはだかっているようだった。一体誰が送ってきたんだろう。送り主は……どこにも書いていない。裏側かしら。とりあえず開けてみよう。テープが貼ってある部分に切り入れていく。切り込みを入れると、中からむわっと臭いがしてきた。なにこれ、何かが腐ったような……。
上から二十センチ程切った時、コスンと音がした。中の物が傾いて手に当たった感覚。髪の毛……? 頭? 人の……!? わたしは尻もちをつき、けたたましい悲鳴を上げていた。
 スーッと窓を窓が開く音がちらほら聞こえる。近所の人がわたしを見ているのか。恥ずかしい。混乱しているわたしを一歩引いたところから見ているもう一人のわたしがいた。
「おーい、どうした」お父さんが駆けつけてきた。
「その中に、人が……」わたしはダンボールを指さした。
「なに?」お父さんはわたしが開けた切り口から手で破るようにダンボールを開けていった。観音開きになったダンボールから出てきたのは人間だった。お父さんはそれを抱えて横に寝かした。
「お兄ちゃん……!?」その容姿は他の誰でもないお兄ちゃんだった。目をひん剥いている以外は身体に異常はなく、それがかえって怖い。お兄ちゃんは、わたしが誕生日にプレゼントした靴を履いていた。
「義春か……!? おい、しっかりしろ」お父さんが体を揺すっても、お兄ちゃんはマネキンのように、何も言わず芯の無い動きをするだけだった。
「救急車や。救急車呼んでくれ」
「もう、遅いよ……」
「え?」
「お兄ちゃん、息してないよ。だから、救急車やなくて、呼ばないといけないのは警察……」わたしは空虚感に包まれていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?